第二百六十二話 「明日のない死」と「明日のある死」

わたしたちはどうして死を怖がるのでしょうか。
前のお話でしました。
毎晩、眠りの中の「現実の世界」であると信じている「夢」が実は「映像(映画)の世界」であることを、眠りから覚めることによって気づいているのに、毎日、目が覚めている中の「現実の世界」であると信じている「いわゆる現実」が実は「映像(映画)の世界」であることに気づいていない。
実に奇妙な話です。
毎晩、眠りの中の「現実の世界」であると信じている「夢」が実は「映像(映画)の世界」であることを、眠りから覚めることによって気づいているのなら、死を怖がる必要がありません。
「現実の世界」であると信じている眠りの「夢」の中で、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖が展開され、差別・不条理・戦争の世界が展開されても、眠りから覚めることによってそれらが解消されることは、死が人生のすべての問題を解消してくれることを示唆しているからです。
ところが、
「現実の世界」であると信じている、目が覚めている「いわゆる現実」の中で、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖が展開され、差別・不条理・戦争の世界が展開されても、死が人生のすべての問題を解消してくれるとは限らない。
目が覚めている「いわゆる現実」は「現実の世界」ではなく、「映像(映画)の世界」であることに気づかない限り、つまり、それらを解消してくれる眠りからの覚醒がない限り、死を逆に怖がるわけです。
「生」は昨日と明日に繋がっているが、「死」は明日に繋がっていない。
「死」が来たら明日はない。
つまり、
「生」には明日があっても、「死」には明日がない。
死を怖がる原因がここにあります。
毎日、目が覚めている中の「現実の世界」であると信じている「いわゆる現実」が実は「映像(映画)の世界」であることに気づいていないということは、明日のない「死」だから怖れるのです。
毎晩、眠りの中の「現実の世界」であると信じている「夢」が実は「映像(映画)の世界」であることを、眠りから覚めることによって気づいているということは、明日のある「死」だから怖れないのです。
明日のある「死」なら怖くない。
明日のない「死」なら怖い。
夢から覚めることは、明日を与えてくれます。
眠りから覚めることは、明日を与えてくれます。
毎日、目が覚めている中の「現実の世界」であると信じている「いわゆる現実」が実は「映像(映画)の世界」であることに気づくことが、「夢(いわゆる現実)の中の眠り」から覚めることに外なりません。