第二百六十一話 夢=悟りの一瞥

本当の自分はいつも「現実の世界」にいる。
自我意識(エゴ)の自分、つまり、ニセモノの自分はいつも「映像(夢)の世界」にいる。
毎晩、眠りの中の「現実の世界」であると信じている「夢」が実は「映像(映画)の世界」であることを、眠りから覚めることによって気づいていることが、その事実を証明しています。
それなのに、毎日、目が覚めている中の「現実の世界」であると信じている「いわゆる現実」が実は「映像(映画)の世界」であることに気づいていない。
要するに、
覚醒している本当の自分と、眠っているニセモノの自分が両方いて、眠っているニセモノの自分を“自分”だと錯覚しているのが、わたしたち人間(どぶねずみ人間)なのです。
悟っている本当の自分がいることに気づかず、迷っているニセモノの自分を“自分”だと思い込んでいるわけです。
迷っているニセモノの自分にとっては、“自分”も周りのものもみんな同じ世界だと信じている。
悟っている本当の自分にとっては、“自分”と周りのものはまったく別の世界であることを理解しているのです。
つまり、
“自分”は「現実の世界」にいて、周りのものはみんな「映像の世界」であることを理解しているのです。
太陽は8分前の過去の太陽の映像であることが、そのことを証明しています。
月は2秒前の過去の月の映像であることが、そのことを証明しています。
目の前の恋人は1億分の1秒前の過去の映像であることが、そのことを証明しています。
つまり、
“自分”は、「客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「安全な世界」にいるのです。

周りのものは、「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「危険な世界」にいるのです。

“自分”も周りのものもみんな同じ世界だと信じている、わたしたち人間(どぶねずみ人間)だけが、味噌も糞も同じにしてしまっている。
だから、“自分”を主観、他を客観などと思い込んでいるのです。
味噌を糞に、糞を味噌に思い込んでいるのです。
まったく話にならない連中、それが、わたしたち人間(どぶねずみ人間)なのです。
そんな連中の世界だから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖が渦巻き、差別・不条理・戦争を繰り返すのです。