第二百四十一話 宗教の罠

アダムとイブ、つまり、わたしたち人間の祖先・人類が、天地創造主の神からエデンの園、つまり、自然(地球)社会から追放された理由は、善悪の判断をする禁断の知恵の木の果実を食べた、つまり、知性を得たからです。
これは何を示唆しているのでしょうか。
天地創造主の神は、自然(地球)社会では、知性を必要としないどころか禁じている、ということです。
天地創造主の神、つまり、人知を超えた絶対的な神が、必要でないものを何故つくったのでしょうか。
ここに、宗教の巧妙な罠があります。
第二百三十五話「好いとこ取りの相対性理論」でのわたくしが主催しているセミナーの二つの話を思い出してください。
人知を超えたものなら、すべての人の夢枕に分け隔てなく現れる。
人によって出たり出なかったりする人知を超えた魂や霊などあるか!
そんなもん人知を超えたと言えん!
“それでは、人知を超えたお兄さんの魂は、あなただけを守って、事故に遭った人を守ってやれないのですか?
それでは、人知を超えたお兄さんの魂は、あなただけにとっては神のような存在ですが、怪我をした人にとっては悪魔のようなものですね?”
人知を超えた神(霊、魂)なら、そもそも必要でないものをつくる筈がありません。
だから、宗教では、神の対極に悪魔を置く必要性が生じるのです。
つまり、
天地創造主、人知を超えた絶対的な存在の神である「神の概念」を前提とするなら、神に対峙する悪魔が要る。
何故なら、「概念の世界」=「二元論の世界」=「相対の世界」だからです。
“神が好くて、悪魔が悪い”と善悪の判断をする、新田哲学で言うところの「好いとこ取りの相対一元論」です。
結局の処、
アダムとイブの話は、典型的な「好いとこ取りの相対一元論」であって、そのベースにあるのが、「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」なのです。
だから、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」になるのです。
天地創造主、人知を超えた絶対的な存在の神であれば、アダムとイブが間違いを犯すような禁断の木をそもそもつくらなければいいのです。
それを、自分が創造した被造物の所為にする。
もう一度、第二百三十五話「好いとこ取りの相対性理論」でのわたくしが主催しているセミナーの二つの話を思い出してください。
詐欺師まがいの宗教者連中はそこで言う。
“夢枕に出ない人は、人知を超えた魂や霊を受信する感度がないからだ!”
阿呆などぶねずみ人間はそこで、“そうなんだ!”と感心する。
人によって出たり出なかったりする人知を超えた魂や霊などあるか!
そんなもん人知を超えたと言えん!
テレビ番組で、神(魂、霊)と交信することができると自称する、いわゆる、超能力者はすべて詐欺師である証明です。
超能力者は、天地創造主、人知を超えた絶対的な神だけていいわけで、被造物の中に人知を超えた絶対的な存在である超能力者があっちこっちで登場したら、創造者と被創造者の間で大混乱が生じます。
その大混乱が、差別・不条理・戦争に外ならない。
「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」の所以です。
相対性理論をつくったアインシュタインがアダムとイブの話の著書・旧約聖書を教義としているユダヤ教徒です。
科学者が宗教者でもあるというのもおかしな話です。
新田哲学が主張する「好いとこ取りの相対性理論」の所以です。