第二百三十七話 阿呆の極みの人間社会

わたしたち人間は、映画を観て一喜一憂しているように、神という映像を観て一喜一憂している。
わたしたち人間は、夢を観て一喜一憂しているように、神という映像を観て一喜一憂している。
わたしたち人間は、目の前の「いわゆる現実」を観て一喜一憂しているように、神という映像を観て一喜一憂している。
映画も、夢も、目の前の「いわゆる現実」も、そして、神もみんな「映像の世界」、つまり、「概念の世界」、「運動の世界」、「相対の世界」、「二元論の世界」、「円周の世界」、「生の世界」に過ぎません。
だから、
「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」、「差別・不条理・戦争の世界」になっているのです。
わたしたち人間の歴史、特に、文明社会の歴史は、宗教の歴史と言い換えても言い過ぎではない。
古代、中世はまさに宗教の時代でした。
近代、現代は宗教と同じ穴の狢の科学の時代です。
宗教の目差すものは、一言で言えば、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖からの脱却にあった筈です。
科学の目差すものは、一言で言えば、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖からの脱却にあった筈です。
ところが、宗教、科学の絶対的主人である肝腎の人知を超えた「神」が「映像の世界」の住人に過ぎなかった。
従って、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖からの脱却の切り札の筈の宗教、科学、そして、その主人である「神」が、実は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の張本人に外ならなかった。
つまり、
「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」であり、その世界の住人であるわたしたち人間が、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」に泥まみれになるのは当然です。
「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」から脱却して、「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論(超)の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」に到達(円回帰)しない限り、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」を脱却し、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」に到達(円回帰)することはできません。
「概念の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」の産物である政治や経済で差別・不条理・戦争の問題を解決しようなど、まさしく、“ミイラ取りがミイラになる”だけのことです。
アメリカのゴア元副大統領が、地球温暖化といった地球環境問題を提議した功績で、ノーベル平和賞を受賞する、その勢いで、再び、大統領選に出馬すると言う。
馬鹿馬鹿しいのも程がある。
それほどに、現代人間社会は阿呆の極みに陥っているのです。