第二百三十二話 シンプルだがとんでもない錯覚

「諸行無常」とは、琵琶法師によって“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・”と「平家物語」で謡われる言葉で有名です。
「諸行」、つまり、世の中のことはすべて、「無常」、つまり、運動変化していて、何一つ静止しているものはない。という意味です。
新田哲学で言うところの、「運動の世界」を表現しているわけです。
要するに、
世の中のことはすべて、つまり、「現実の世界」は「運動の世界」と言っているわけで、アインシュタインが主張するところの「相対性理論」と同じなのが、諸行無常論であるわけです。
一見、真理のように思えます。
何故なら、わたしたち人間が錯覚のどぶねずみ人間だから、真理のように思えるわけです。
琵琶法師もアインシュタインも、過去の多くの偉人たちが、“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”つまり、諸行無常であると諭してくれているのに、何故、わたしたち人間は悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生を送り、差別・不条理・戦争を繰り返さなければならないのでしょうか。
“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”という諸行無常論が、「運動の世界」、「相対の世界」を「現実の世界」と錯覚させていることに気づいていないからです。
“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”という諸行無常論の世界、つまり、「運動の世界」、「相対の世界」は「映像の世界」であることに気づいていないからです。
新田哲学で執拗に繰り返している、
「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」を思い出してください。
“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”という諸行無常論の世界、つまり、「運動の世界」、「相対の世界」が、「概念の世界」=「映像の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」に外ならないのです。
いいですか、脳味噌に汗を掻かせて、よく考えてください。
“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”という諸行無常論が、わたしたち人間を、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」から解放してくれるのではないのです。
“世の中のことはすべて運動変化していて、何一つ静止しているものはない”という諸行無常論が、わたしたち人間を、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」に陥らせているのです。
このとんでもない錯覚を、琵琶法師もアインシュタイン(?)も、過去の多くの偉人たちもしてきたのです。
だから、いまだに、わたしたち人間社会だけが、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」なのです。
こんなシンプルな真理がわかっていないのです。