第二百二十八話 「神」=本当の自分

わたしたち人間社会だけにある宗教が主張するのが、天地創造主であり、人知を超えた絶対的な存在である「神の概念」です。
しかし、「神」に関しても、「死」、「時間」、「蓄積」と同じように、「観念」、「概念」、「理解」という三つの過程があるわけです。
「観念の世界」に生きている他の生きものが持つ、母なる大地・地球(自然)に対する無意識のうちの信頼、畏怖は、「神の観念」から来るものです。
彼らが絶対に自然の掟を破らないのは、「神の観念」を持っているからです。
わたしたち人間社会に宗教が誕生して擬人化された「神の概念」が誕生したのですが、元を糾せば、自然に対する信頼、畏怖から発生した「信仰」にあったわけです。
太陽信仰、自然信仰などは宗教ではなく、信仰であり、他の生きものが持つ「神の観念」から発生したものです。
つまり、
「神の概念」は「神の観念」から生まれたわけで、やがて、「神の理解」に至るのが、円回帰運動の定めなのです。
宗教は、所詮、「神の概念」が生んだものに過ぎず、「神の観念」、「神の概念」、を網羅した「神の理解」に至っていません。
「観念の世界」、「概念の世界」を網羅した「理解の世界」とは、「実在の世界」、「映像の世界」を網羅した「現実の世界」です。
つまり、
静止画フィルムのある映写室が「実在の世界」であり、白いスクリーンに映っている動画面(アニメーションという映画)が「映像の世界」であり、「鑑賞者」のための鑑賞席を含めた映画館(劇場)が「現実の世界」なのです。
静止画フィルムという「実在の世界」だけなら、映画館(劇場)という「現実の世界」は要らない。
静止画フィルムという「実在の世界」を動かして、動画面(アニメーションという映画)という「映像の世界」が映し出された結果、鑑賞席のある映画館(劇場)という「現実の世界」が必要になった。
突き詰めれば、
フィルムがあって、映画が映し出された結果、鑑賞者が必要になった。
わたしたち人間がエデンの園から追放されたのは鑑賞者になったことに外ならないのです。
ただその鑑賞者が完全に自覚していない、つまり、不完全な知性のため、映画の世界(映像の世界)に自己同化しているのです。
わたしたち人間が完全な知性に達すれば、自分、つまり、本当の自分は鑑賞者であることを理解できるのです。
ところが、不完全な知性のわたしたち人間は、神を鑑賞者に仕立て上げた。
それが「神の概念」の正体に外ならない。
なかなか本当の自分を発見できず、ニセモノの自分のままで長くいた結果、本当の自分の位置に神を据えたのが宗教の実体であり、「神の概念」に外ならないのです。
従って、
「神の理解」は本当の自分の理解に外ならないのです。