第二百二十七話 「神の観念」&「神の概念」&「神の理解」

「概念の世界」、「映像の世界」、「相対の世界」、「運動の世界」、「二元論の世界」、「円周の世界」、「生の世界」、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生の世界」、「差別・不条理・戦争の世界」である人間社会だけに、「神の概念」があります。
「死の概念」、「時間の概念」、「蓄積の概念」と同じように、「神の概念」があるわけです。
まさに、“神が好くて、悪魔が悪い”とするが、実は、悪魔が実在で、神は悪魔の不在概念に過ぎない、「神の概念」であります。
ということは、
「観念の世界」、「実在の世界」、「絶対の世界」、「静止の世界」、「一元論の世界」、「始点の世界」、「誕生の世界」、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖と無縁の世界」、「差別・不条理・戦争のない世界」である自然(地球)社会には、「神の観念」がある。
更には、
「理解の世界」、「現実の世界」、「絶対・相対の世界」、「静止・運動の世界」、「三元論の世界」、「終点の世界」、「死の世界」、「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」、「差別・不条理・戦争を超えた世界」である「新しい社会」には、「神の理解」がある。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が信じ込んでいる「神」の位置は、天地創造主や人知を超えた絶対的な存在ではなく、「概念の世界」にあったのです。
つまり、
「“生が好くて、死が悪い”、“オスが好くて、メスが悪い”、“善が好くて、悪が悪い”、“強が好くて、弱が悪い”、“賢が好くて、愚が悪い”、“富が好くて、貧が悪い”、“幸福が好くて、不幸が悪い”、“天国が好くて、地獄が悪い”、“神が好くて、悪魔が悪い”、“健康が好くて、病気が悪い”、“支配者が好くて、被支配者が悪い”・・・“光が好くて、暗闇が悪い”と善悪の判断をする世界」、つまり、「二元論の世界」の不在概念の世界にあったのです。
“生”、“オス”、“善”、“強”、“賢”、“富”、“幸福”、“天国”、“健康”、“支配者”、“光”と同じ位置にいるのが、“神”なのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“生”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“オス”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“善”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“強”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“賢”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“富”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“幸福”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“天国”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“健康”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“支配者”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)が、求めても土台無理な不在概念に過ぎない“光”を求めるように、“神”を求めてきたのです。
“神”は、所詮、わたしたち人間(どぶねずみ人間)が躍起になって追い求めている“富”、つまり、“お金持ち”と同じ所にいるのです。
では何故、そんなゴミのような物を、わたしたち人間(どぶねずみ人間)は、天地創造主や人知を超えた絶対的な存在などと祀り上げたのでしょうか。
その答えのヒントが、「神の理解」にあるのです。