第二百二十四話 どぶねずみ化のバロメーター(9)

あなたは、「生の世界」に自己同化していませんか?
それなら、あなたはまさしく、どぶねずみ人間です。
「生の世界」とは、「自己不在の世界」、「映画の世界」、「夢の世界」のことです。
わたしたち人間は、目の前に展開される、いわゆる、現実という世界に自分が生きていると思い込んでいます。
つまり、「生の世界」に自己同化しているのです。
ところが、夜眠っている間に観る夢の中の世界には自分が出演しておらず、鑑賞者だけでいることを、少なくとも、朝目が覚めた瞬間(とき)には、“ああ!さっきまでの現実は、夢という映画だったんだ!”と気づくわけです。
つまり、映画だから、自分は出演しているのではなく、鑑賞しているだけであることを知るわけです。
しかも、夢という映画の真最中には、“ああ!これは夢では?”などと疑うことは一切ない。
“ああ!これは夢では?”と疑った途端、夢は終わり、目が覚める。
一方、目の前に展開される、いわゆる、現実という世界では、わたしたちは、“ああ!これは夢では?”と疑うことは多々あります。
とんでもない艱難辛苦に襲われたとき、わたしたちは、“ああ!これは夢では?”、“ああ!これは夢であって欲しい!?”と、まるで、“ああ!神さま!助けてください!”と無意識に願うように、思います。
この違いは何を意味しているのでしょうか。
実は、目の前に展開される、いわゆる、現実という世界よりも、夢の世界の方がより現実的であることを証明しているのです。
つまり、
目の前に展開される、いわゆる、現実という世界には、自分は生きていないことを証明しているのです。
つまり、自分が生きていると思い込んでいる(自己同化している)「生の世界」とは、「自己不在の世界」であるわけです。
そういう点において、わたしたち人間はすべてどぶねずみ化していると言っても過言ではありません。
しかし、朝目が覚めた瞬間(とき)に、“ああ!さっきまでの現実は、夢という映画だったんだ!”と気づくことも確かです。
ということは、「生の世界」に自己同化していても、「死の世界」に入ったら、“ああ!さっきまでの現実は、夢という映画だったんだ!”と気づくことができるのです。
平たく言えば、
ひとたび死ねば、“ああ!さっきまでの80年間の人生は、夢という映画だったんだ!”と気づくわけです。
それは、わたしたち人間だけが、「死の概念」を持っている、つまり、“自分も
必ずいつか死ぬ”ことを知っているから、気づくことができるのです。
その瞬間(とき)、「死の概念」から「死の理解」に至るのです。
「死の理解」とは、生きている間に、「生の世界」に自己同化する自分に気づき、「死の世界」に生きていることの理解に外なりません。
「生の世界」に生きているのではなくて、「死の世界」に生きているという「死の理解」によって、人生を完璧に生きることができるのです。
つまり、『今、ここ』を生き切ることができるのです。
死に直面して理解するから、先伸ばしの人生を生きてきた後悔が湧き起こる。
それが怖いから、死を怖れているのです。
人生を完璧に生きることができたら、一切の後悔はないから、死を受け入れることができる、つまり、死を怖れなくなるのです。
逆に言えば、
死を怖れて生きれば、人生を完璧に生きることはできないのです。
死を怖れず生きれば、人生を完璧に生きることができるのです。
そういう点において、どぶねずみ化しているわたしたち人間ですが、真の人間になる可能性をみんな持っているのです。