第二百十六話 「理解」することの大切さ

平等とは差別の不在概念に過ぎません。
公正とは不条理の不在概念に過ぎません。
平和とは戦争の不在概念に過ぎません。
従って、
差別・不条理・戦争のない社会をつくるために、平等・公正・平和を求めても土台無理な話です。
平等・公正・平和など、そもそも実在しないのですから。
500年の近代史は、戦争に明け暮れた時代で、各世紀とも、戦争のない平和な時期が10年以上続いたことはなかったのです。
平和とは、戦争と戦争の合間に過ぎなかった、まさに、戦争のない時期、つまり、戦争の不在概念に過ぎなかったのです。
政治問題、経済問題、社会問題といった人文科学、つまり、人間社会だけにある「考え方」などで、差別・不条理・戦争の問題を解決することは不可能なのです。
政治家が相談をして、平和がもたらされるわけではないのです。
彼らが相談をして、もたらされるのは、戦争だけなのです。
政治家が相談をして、公正がもたらされるわけではないのです。
彼らが相談をして、もたらされるのは、不条理だけなのです。
政治家が相談をして、平等がもたらされるわけではないのです。
彼らが相談をして、もたらされるのは、差別だけなのです。
ところが、いまだに、人間社会は、平等・公正・平和のために政治家が集まって相談をし、わたしたち一般国民も、それによって、平等・公正・平和がもたらされると信じていることは、あまりにも馬鹿げています。
政治家が集まって相談したら、わたしたち一般国民にもたらされるのは、間違いなく差別・不条理・戦争だけなのです。
差別のない社会を目差すには、差別と平等を超えた社会にしなければならないのです。
不条理のない社会を目差すには、不条理と公正を超えた社会にしなければならないのです。
戦争のない社会を目差すには、戦争と平和を超えた社会にしなければならないのです。
つまり、
「概念の世界」から「理解の世界」に至らなければならないのです。
差別を避けて、平等を求めてはいけません。
不条理を避けて、公正を求めてはいけません。
戦争を避けて、平和を求めてはいけません。
日本社会にも「部落問題」という差別があります。
学校では、“差別をしないように!”と部落問題を子供たちに教えます。
差別の考え方も平等の考え方も何も知らない子供たちに、差別・平等という二元論の考え方を教えている結果、差別をする子供たちをつくっているのです。
差別も平等も何も知らない子供のままで大人になれば、その時、差別・平等を超えた社会に晴れてなれることを、学校は理解していないからです。
平等を求めることは差別を求めていることと同じなのです。
公正を求めることは不条理を求めていることと同じなのです。
平和を求めることは戦争を求めていることと同じなのです。
人間社会を「概念の世界」から脱却させて「理解の世界」に円回帰させるしか道はないのです。