第二百十一話 映像の正体

映画を観ている鑑賞者にとって、映画の中の出来事にいくら一喜一憂しても仕方のない話です。
つまり、何もできない見果てぬ夢のようなものです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)の、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖とは、映画の中の何もできない見果てぬ夢なのです。
逆に言えば、
何もできない見果てぬ夢の映画だから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖であるわけです。
どうにかできる、現実の出来事なら、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖ではないわけです。
答えのない質問(疑問)が質問(疑問)であります。
答えのある質問(疑問)は質問(疑問)ではなくなります。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)の、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖とは、答えのない質問(疑問)なのです。
映画の中の出来事をどうこうすることは、鑑賞者にはできない。
映画の中の出来事をどうこうしたいのなら、映画監督になって、撮影しなおし、撮影フィルム、つまり、一枚一枚の静止画フィルムをつくり変えるしか方法はない。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人生という映画の中の出来事をどうこうしたいのなら、撮影フィルム、つまり、一枚一枚の静止画フィルムをどうにかするしか方法はない。
一枚一枚の静止画フィルムをつくり変えるとは、どういうことでしょうか。
一枚一枚の静止画フィルムは、『今、ここ』のスナップ写真です。
言い換えれば、
「観念の世界」、「実在の世界」、「絶対の世界」、「静止の世界」、「一元論の世界」、「始点の世界」、「誕生の世界」のスナップ写真に外なりません。
動いているものはすべて映像に過ぎない。
止まっているものが実在である。
ハイゼンベルグという人が、アインシュタインの「相対性理論」に対して、「不確定性原理」というものを提唱した。
平たく言えば、
動いているものの位置を決めることはできないし、止まっているものの速度を決めることはできない。
至極当たり前の話です。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)の、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖とは、動いているものの位置を決めようとするか、止まっているものの速度を決めようとしている土台無理な話なのです。
土台無理な話だから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖になるのです。