第二百四話 「実在」→「映像」→「現実」

「概念の世界」で生きている、わたしたち人間(どぶねずみ人間)は、「映像の世界」、「相対の世界」、「運動の世界」、「二元論の世界」、「円周の世界」、「生の世界」だけを生きているのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)といえども、「観念の世界」、「実在の世界」、「絶対の世界」、「静止の世界」、「一元論の世界」、「始点の世界」、「誕生の世界」から誕生してきたのです。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)といえども、「理解の世界」、「現実の世界」、「絶対・相対の世界」、「静止・運動の世界」、「三元論の世界」、「終点の世界」、「死の世界」へ死んでゆくのです。
「観念」あっての「概念」であり、「概念」あっての「理解」である。
このことを絶対に外してはなりません。
「誕生」あっての「生」であり、「生」あっての「死」である。
しかも、「生」は所詮「映像の世界」に過ぎません。
生きているということは、映画の中の出来事に過ぎないのです。
映画を観ている鑑賞者が必ずいるのです。
生きている中で、病気の苦労や貧乏の苦労をしているのも、所詮は映画の中での出来事であり、病気の苦労や貧乏の苦労をしている自分など何処にもいないのです。
何故ならば、自分、つまり、映画の鑑賞者は、映画には出演していないのです。
生きている中で、病気の苦労や貧乏の苦労をしている実体は、映画を観ている鑑賞者の一喜一憂に過ぎないのであって、映画鑑賞が終われば、つまり、死ねば、消えてしまう、ただの映像なのです。
幸福な人生を送りたいと願う、わたしたち人間(どぶねずみ人間)は、初めから終わりまで幸福ずくめの映画を観たいと思っているのです。
そんな映画は映画ではありません。
悲しいこともあれば、嬉しいこともある映画だから、楽しい映画鑑賞なのです。
一喜一憂しない映画などなんの魅力もありません。
わたしたち人間(どぶねずみ人間)といえども、「観念の世界」から誕生してきたのであり、「理解の世界」へ死んでゆくことを、決して外してはなりません。