第二百三話 「観念」→「概念」→「理解」

「オス社会」を頂点にして、「宗教と科学」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会」で底辺を構成するトライアングルが、人類に文明社会をもたらした結果、差別・不条理・戦争の無責任な「映像の世界」が映し出されたのです。
「映像の世界」の申し子が「概念(考え方)」であり、「死の概念」、「時間の概念」、そして、「蓄積の概念」を生んできたのです。
「実在の世界」では、「観念(在り方)」はあっても、「概念(考え方)」はありません。
「実在の世界」の映像が「映像の世界」ですから、「観念(在り方)」の映像が「概念(考え方)」であって、元は「観念(在り方)」に外なりません。
「実在」あっての「映像」。
「観念(在り方)」あっての「概念(考え方)」。
従って、
「死の観念」あっての「死の概念」であり、「死の概念」あっての「死の理解」である。
「時間の観念」あっての「時間の概念」であり、「時間の概念」あっての「時間の理解」である。
「蓄積の観念」あっての「蓄積の概念」であり、「蓄積の概念」あっての「蓄積の理解」であって、元はすべて「観念」にあることを忘れてはならない。
“食う食われる”という「死の観念」あっての、“自分も必ずいつか死ぬ”という「死の概念」であって、“自分も必ずいつか死ぬ”という「死の概念」あっての、“自分は必ずいついつに死ぬ”という「死の理解」に至るのです。
“一日(朝・昼・夜)と一年(春・夏・秋・冬)”という「時間の観念」あっての、“過去・(現在)・未来”という「時間の概念」であって、“『過去・(現在)・未来』”という「時間の概念」あっての、“『今、ここ』”という「時間の理解」に至るのです。
従って、
「蓄積の観念」あっての「蓄積の概念」であり、「蓄積の概念」あっての「蓄積の理解」であるわけです。
宇宙といったマクロ世界から、人間といったミディアム世界、素粒子といったミクロ世界を貫いた円回帰運動とは、『誕生=始点=一元論=静止=絶対=実在=観念/生=円周=二元論=運動=相対=映像=概念/死=終点=三元論=静止・運動=絶対・相対=現実=理解』に外ならないのです。
平たく言えば、
“心・魂・意識・精神・霊”と称しているものは「連想」、つまり、「想い」の連なったものであり、点をぐるぐる回せば「連点」となり、それが「円」という映像を映し出すように、「想い」という点は実在ですが、「連想」という“心・魂・意識・精神・霊”は映像に過ぎないことを、「生=円周=二元論=運動=相対=映像=概念の世界」で生きている、わたしたち人間(どぶねずみ人間)は理解していないのです。