第九十九話 誕生・生・死の制御性

究極の持ち越し苦労が自己の誕生の問題です。
究極の取り越し苦労が自己の死の問題です。
自己の誕生の問題は100%どうにもなりません。
第六十九話「使命」でお話しましたように、最初と最後に永遠性がある円回帰運動をしているわたしたちの運動の宇宙では、
始まりがあるから、終わりがない。
若しくは、
始まりがないから、終わりがある。
が真理です。
因果律で言うところの、
始まりがあるから、終わりがある。
若しくは、
始まりがないから、終わりがない。
は通用しません。
従って、自己の誕生の問題は100%どうにもならないということは、自分の人生の始まりがないわけです。
従って、自分の人生の終わりがあります。
従って、自己の死の問題は100%どうにでもなります。
それは、誕生と死との狭間にある生をどう捉えるかで決定されます。
いずれにせよ、「死の概念」を持っている人間でも、「死の概念」を持っていない他の生き物でも、自己の誕生の問題は100%どうにもなりません。
更に「死の概念」を持っていない他の生き物は、生の問題も100%どうにもならず、死の問題も100%どうにもならない。
つまり、「死の概念」を持っていない他の生き物は、自己の誕生の問題も、生の問題も、死の問題も100%どうにもならないで生きているのです。
一方、「死の概念」を持っているわたしたち人間は、自己の誕生の問題は100%どうにもならないが、自己の生の問題も、自己の死の問題も100%どうにでもなるのです。
その理由が、「死の観念」→「死の概念」→「死の理解」にあるのです。
「死の理解」まで達すれば、自己の死の問題は100%どうにでもなり、遡ってみて、自己の生の問題も100%どうにでもなります。
そのためには、「死の概念」を通過しなければなりません。
「死の観念」、「死の概念」、「死の理解」の過程において、自己の誕生・生・死という円回帰運動の制御の可能性があるのです。
平たく言えば、
死を知らないで生きている人生には意義がないが、死を知ることによって人生の意義が生まれ、死を理解することによって人生の意義を知ることができるのです。
つまり、“生きることとは死ぬことと見つけたり”であります。