第九十七話 『今の自分』

他の生き物は『今、ここ』を生き切ることができているのに、わたしたち人間だけが『今、ここ』を生き切ることができず、『今、ここ』と『過去・(現在)・未来』に思いを馳せることを交互に繰り返して生きています。
他の生き物は覚醒している、悟っている。
わたしたち人間だけが覚醒していない、悟っていない。
『今、ここ』を生き切っているか、『今、ここ』と『過去・(現在)・未来』に思いを馳せることを交互に繰り返しているかの違いが、覚醒している、悟っているか、覚醒していない、悟っていないかの差です。
他の生き物は、『今』という汽車の中から窓外の景色を一切見ないのに、わたしたち人間だけが窓外の景色を見て、その景色が走っているように錯覚している。
窓外の『過去・現在・未来』という景色を見るか見ないかの違いが、覚醒している、悟っているか、覚醒していない、悟っていないかの差です。
理由は、わたしたち人間だけが「死の概念」を持っているからです。
理解すべきことは、『今、ここ』と自分は常に一緒に動いていることです。
時間が流れている(動いている)のは、『過去・現在・未来』という時間が流れているのではなく(動いているのではなく)、『今』という時間が『ここ』すなわち自分と一緒に流れている(動いている)だけです。
従って、『今、ここ』とは『今、自分』ということに外ならないのです。
『今、自分』とは『今の自分』と言い換えてもいいでしょう。
『今、ここ』が実在するもので、『過去・(現在)・未来』はその映像だと口が酸っぱくなるほど言ってきました。
『今の自分』しか実在しないのです。
『過去の自分』、『現在の自分』、『未来の自分』などすべて映像です。
現在とは限りなく『今』に近い過去、若しくは、限りなく『今』に近い未来であって、現在と『今』とは決して出会うことのない決定的(次元的)に違うもので、『過去・現在・未来』を実時間と呼ぶのに対して、『今』を虚時間と呼びます。
この実時間と虚時間のどんでん返しが、実は、わたしたち人間の錯覚(勘違い)の原点にあるのですが、これは追々お話していきます。
わたしたち人間は、『今の自分』しか実在しないのに、『過去の自分』、『現在の自分』、『未来の自分』に振り回されて生きているから、悩み、四苦八苦し、挙句の果てに、死ぬことを怖れて生きる羽目に陥っているのです。