第九十六話 「悟り」への第一歩

知性ある人類の人類たる所以は「死の理解」に至ることにあります。
ところが、わたしたち中途半端な人類は「死の概念」レベルで停滞してしまっているのです。
だから、未だ来ぬ未来の出来事である死に怯えているのです。
未だ来ぬ未来の出来事には確実なこと、つまり、必然なことが一切ないのが未来の本来の姿であります。
それを体現しているのが他の生き物たちです。
彼らには「死の概念」がないのがその証明です。
つまり、死ぬことを知らないで生きている。
だから、『未だ来ぬ未来の死』に思いを馳せる必要性がないのです。
だから、『過去・現在・未来』に思いを馳せる必要性がないのです。
だから、『今、ここ』を生き切ることができるのです。
この世の出来事はすべて必然であると主張するなら、未だ来ぬ未来に死ぬことを知っているわたしたち人間は自分の死期も知っていなければなりません。
“死は、差し出し人、差し出し日が書かれていない速達便”と誰かが言っていましたが、その通りで、死はある日突然襲ってきます。
死は5才の子供にも容赦なく突然襲ってくるのに、平均寿命をとうに過ぎた介護老人がいくら死を望んでも一向に襲ってこないのも死です。
まさに、“死は、差し出し人、差し出し日が書かれていない速達便”であります。
わたしたち人間だけが『過去・現在・未来』に思いを馳せる結果、悩み、四苦八苦の人生を送っているのは、「死の概念」で停滞しているからです。
本当の時間である『今』という名の汽車の『ここ』に乗って、汽車と一緒に走っているのが自分であり、窓外に見える景色が『過去・現在・未来』である。
他の生き物は窓外の景色を一切見ないのに、わたしたち人間だけが窓外の景色を見て、その景色が走っているように錯覚している。
実は走っているのは自分であって、景色は止まっているのです。
つまり、『今、ここ』が常に自分と一緒に走っていて、『過去・現在・未来』は止まっているのに、窓外の景色を見るから景色が走っているように勘違いするのです。
では何故、わたしたち人間だけが窓外の景色を見るのでしょうか。
「死の概念」を持っているからです。
では何故、他の生き物たちは窓外の景色を見ないのでしょうか。
「死の概念」を持っていないからです。
ひとたび「死の概念」を持ったら、「死の理解」に至るしか道はないのです。
ひとたび窓外の景色を見たら、自分が走っていて、景色は止まっていることに気づくことです。
走行方向の遠い先に見える景色、つまり、未来の出来事が、目の前の景色、つまり、現在の出来事として襲ってくるのではなく、自分が勝手に進んでいる(動いている)だけのことに気づくことです。
それが、知性ある人類の人類たる所以であり、「死の理解」に至る「悟り」への第一歩であります。