第八十五話 二十一世紀中には必ずわかる!

“他人の存在が地獄である”
ジャン・ポール・サルトルが言った。

“他人の存在が天国である”
新田論が言った。

『過去・現在・未来』という時間(運動)が空間(静止)の上に君臨することによって、四次元「時空の世界」がある。
アインシュタインが言った。

『過去・現在・未来』は時間(運動)ではなく空間(静止)であり、自分が『今、ここ』という時空間(静止・運動)であるのに空間(静止)と錯覚(勘違い)しているから、『過去・現在・未来』を時間(運動)と錯覚(勘違い)している。
新田論が言った。

睡眠にはNON-REM睡眠(熟睡している間の睡眠)とREM睡眠(夢を見ている間の睡眠)があって、NON-REM睡眠(熟睡している間の睡眠)は体を休め、REM睡眠(夢を見ている間の睡眠)は精神を休めるために必須のものである。
心理学者や医学者が言った。

睡眠はNON-REM睡眠(熟睡している間の睡眠)だけであり、REM睡眠(夢を見ている間の睡眠)は目が覚めた状態と同じである。
更に、NON-REM睡眠(熟睡している間の睡眠)が睡眠であるのは子供の頃、つまり、自我意識(エゴ)がまだ発生していない状態の時に限り、自我意識(エゴ)が発生し記憶の蓄積が始まって以降は、NON-REM睡眠(熟睡している間の睡眠)でさえも体も意識(五感)も覚めている、つまり、眠っていない。
従って、自我意識(エゴ)が発生して以降は睡眠などしていない。
新田論が言った。

意識には個別顕在意識、その下に個別潜在意識があり、更にその下に集合意識があるが、これらの意識はすべて脳の働き具合によって分けられる。
脳科学者や心理学者が言った。

意識は五感の働きによって生じるもので、五感が完全に機能した状態が集合意識で、五感が一部しか機能していない状態が顕在意識、つまり、自他の区分けをすることによって生じる『自分は・・・』と思う自我意識(エゴ)、つまり、『心』、『魂』、『精神』といった『想い』のことであり、潜在意識は集合意識を忘れさせる、つまり、五感機能にとって障害物に過ぎない。
新田論が言った。

肉体はこの世だけの借り物で、魂こそが生死を超えた永遠のものである。
つまり、魂が輪廻転生する。
だから、世の中の出来事はすべて必然である。
宗教者や霊能者が言った。

肉体こそが永遠のものでただ相転移する(形が変わる)だけで、魂、つまり、『想い』は肉体の一部である五感が働いている間だけのものであり、五感は肉体が死ぬ、つまり、相転移する(形が変わる)ことで消滅してしまうから、『魂』も消滅してしまう。
つまり、肉体が輪廻転生(相転移)する。
肉体が全体であり、五感は部分である。
必然は全体の話であり、部分にとってはすべて偶然の出来事である。
つまり、一個人(部分)が必然だと自覚することは起こり得ない。
その証拠に、未だ来ぬ未来の出来事である死を知っていながら、死ぬ時期がわからないのになぜ必然と言えるのか。
死を知っているなら、死期も知ってこそ必然である。
新田論が言った。

神が善であり、悪魔が悪である。
善行を積めば、天国に行ける。
善行を積めば、幸福になれる。
善行を積めば、健康になれる。
神、善、天国、幸福、健康が好いことで、悪魔、悪、不幸、病気が好くないことである。
宗教者や倫理・道徳を説く識者や科学者(医者・・・)が言った。

神は所詮(不在)概念、つまり、『考え方』であって、実在するのは悪魔である。
天国は所詮(不在)概念、つまり、『考え方』であって、実在するのは地獄である。
善は所詮(不在)概念、つまり、『考え方』であって、実在するのは悪である。
幸福は所詮(不在)概念、つまり、『考え方』であって、実在するのは不幸である。
健康は所詮(不在)概念、つまり、『考え方』であって、実在するのは病気である。
新田論が言った。

宇宙は137億年前のビッグバンによって誕生した運動宇宙であり、静止宇宙はミステリー(神)の世界である。
だから、『過去・現在・未来』という心理的時間の矢が流れる。
天文学者や物理学者が言った。

運動宇宙は映像に過ぎず、実在するのは静止宇宙である。
だから、『過去・現在・未来』に思いを馳せた(運動)世界は映像であり、『今、ここ』という(静止)世界が実在である。
運動宇宙と静止宇宙が別々に存在するのではなく、運動(宇宙)とは静止(宇宙)の映像に過ぎない。
新田論が言った。

いずれに軍配が上がるか。
二十一世紀中には決着がつくでしょう。
ただ今ここで言えることは、わたしたち人間は寝ても起きても錯覚(勘違い)の連続の中で生きている、だから、言葉では“差別はいけない、不条理なことをしてはいけない、戦争は絶対にいけない!”とみんな言いながら、差別・不条理・戦争を繰り返して、金の亡者、権力の亡者、名誉の亡者になっているのです。
これも一重に、人生の最終結論である死を好くないもの、不吉なものと捉えながら、死への行進過程にある人生を好いものにしたい、吉なるものにしたいと考えて生きている、わたしたち人間の錯覚の極みに因るものです。