第八話 魂と肉体

新田哲学では、「心」や「魂」や「霊」や「精神」といったものはすべて、『自分は・・・』と思う(考える)自我意識、つまり、『エゴ』と捉えています。
つまり、『過去』や『未来』に想いを馳せることが「心」や「魂」や「霊」や「精神」の正体であり、『今、ここ』に生きることで『自分は・・・』と思う(考える)自我意識、つまり、『エゴ』を失くすることができるのです。
従って、新田哲学は、あらゆる宗教が主張する、「心」や「魂」や「霊」や「精神」はこの世とあの世を貫く永遠のもので、「肉体」はこの世だけの借り物であり、「心」や「魂」や「霊」や「精神」はこの世とあの世を往復する、つまり、輪廻転生するという説とまったく反対の考え方をしています。
新田哲学では、強引な言い方をすれば、「肉体」がこの世とあの世を貫く永遠のもので、「心」や「魂」や「霊」や「精神」はこの世だけの借り物である、ということになります。
なぜなら、「心」や「魂」や「霊」や「精神」は、五感が働くことによって生じる自他の区分けをする「自我意識」、つまり、「エゴ」に外ならないのであって、五感、つまり、目・耳・鼻・舌・皮膚は肉体の一部に過ぎないのであり、肉体が滅びることによって五感も滅びるからです。
死ぬということをどのように捉えるかは、次の機会にお話するとして、人間を含めて、すべての生き物は肉体が主体で五感が従体である、つまり、肉体あっての五感であるのです。
五感以外の肉体、つまり、内臓である五臓(心臓・肝臓・脾臓・肺臓・腎臓)と六腑(大腸・小腸・胆嚢・胃・三焦・膀胱)は、生まれてから死ぬまで四六時中働き続けていますが、五感は眠っている間は働いていないのが、肉体が主体で五感が従体である証明であります。
心臓機能が停止しても五感が機能していることは絶対にないが、五感機能が停止しても心臓は機能しているのは、眠っている時が証明しています。
眠っている時にも、あなたは見えていますか。
視覚機能が停止している筈です。
目覚し時計が鳴っていても、熟睡していて気がつかないのは、聴覚機能が停止しているからです。
逆に、心臓が停止していても、あなたは何か見ることができますか。
できるわけがない。
熟睡している時にはまるで意識がないのに、つまり、「心」や「魂」や「霊」や「精神」がないのに、夢の中では喜んだり、悲しんだりしているのは、夢という映画・映像を見ているからであって、熟睡している時には視覚が機能していないのに、夢を見ている時には視覚が機能しているわけで、意識、つまり、「心」や「魂」や「霊」や「精神」は五感機能によって現れたり消えたりする。
一方、五感以外の肉体、つまり、五臓六腑は起きていようが、寝ていようが、熟睡していようが、夢を見ていようが、死ぬまで働き続けているのです。
それなのに、「心」や「魂」や「霊」や「精神」が主体で、肉体が従体だと、どうして言えるのでしょうか。
従って、新田哲学では、肉体が主体で、「心」や「魂」や「霊」や「精神」は従体であると断言しています。
輪廻転生説を主張する宗教など、まやかし以外の何者でもないと主張しています。
神社仏閣に願いごとをしたり、坊主にお経を詠んでもらう葬式など愚の骨頂であり、ただの石である墓に手を合わせるのは狂気の沙汰としか言えません。
「千の風にのって」という歌のはじめに、「わたしのお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません」はまさにその通りであります。