第七十九話 覚醒と眠り

覚醒するとは、悟っていると言い換えてもいいでしょう。
従って、悟っている覚醒状態とは、
見る時は『今、ここ』にいて完全に見ている。
聞く時は『今、ここ』にいて完全に聞いている。
匂う時は『今、ここ』にいて完全に匂っている。
味わう時は『今、ここ』にいて完全に味わっている。
触る時は『今、ここ』にいて完全に触っている。
状態のことを言います。
逆に言えば、
悟っていない、つまり、覚醒していない状態とは、
見ながら『過去・(現在)・未来』に思いを馳せている。
聞きながら『過去・(現在)・未来』に思いを馳せている。
匂いながら『過去・(現在)・未来』に思いを馳せている。
味わいながら『過去・(現在)・未来』に思いを馳せている。
触りながら『過去・(現在)・未来』に思いを馳せている。
状態のことを言います。
つまり、
悟っている覚醒状態とは、『今、ここ』絶対一如(一元)の状態に外なりません。
『今、ここ』・『今、ここ』・『今、ここ』・『今、ここ』・『今、ここ』・・・状態です。
悟っていない、眠っている状態とは、『過去(現在)・未来』に思いを馳せる・相対二元の状態に外なりません。
『今、ここ』・『過去(現在)・未来』・『今、ここ』・『過去(現在)・未来』・『今、ここ』・『過去(現在)・未来』・・・状態であって、決して、『過去(現在)・未来』一如、つまり、『過去(現在)・未来』・『過去(現在)・未来』・『過去(現在)・未来』・・・三昧ではなく、やはり、『今、ここ』に断続的に居るのです。
静止状態が静止一如(一元)、つまり、静止・静止・静止・静止・静止・・・状態であるのに対して、運動状態とは静止・運動相対二元であるのと同じ理屈です。
死が死一如(一元)、つまり、死・死・死・死・死・・・状態であるのに対して、生は死・生相対二元、つまり、死・生・死・生・死・生・・・状態であって、決して、生一如、つまり、生・生・生・生・生・・・三昧ではなく、やはり、死が断続的に在るのです。
この点においても、わたしたち人間はどうやら錯覚しているようです。
悟っている(覚醒している)とは、悟り(覚醒)絶対一如(一元)であるのに対して、悟っていない(眠っている=迷っている)とは、悟り(覚醒)・眠り(迷い)・相対二元であるわけで、決して眠り(迷い)一如(一元)ではないのです。
悟り(覚醒)が実在するもので、眠り(迷い)は悟り(覚醒)の不在状態に過ぎないのです。
眠っている(迷っている)わたしたち人間でも、悟り(覚醒)の縁(一瞥)を常に経験しているのです。
「目が覚めている」ことと「覚醒している」ことの違いがここにある。
だから、わたしたち人間は、目が覚めていても意識は眠っているのです。
だから、わたしたち人間は、目の覚めている世界でも、夢を見ている世界と同じ映像の世界で生きているのです。
だから、わたしたち人間は、悟っているのに悟っていないのです。
だから、わたしたち人間は、死を怖れて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、悪を避けて善を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、弱を避けて強を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、愚を避けて賢を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、貧を避けて富を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、不幸を避けて幸福を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、地獄を避けて天国を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、悪魔を避けて神を求めて生きているのです。
だから、わたしたち人間は、病気を避けて健康を求めて生きているのです。
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だから、わたしたち人間は、被支配者(奴隷・一般大衆)を避けて支配者を求めて生きているのです。
もういい加減、この錯覚から目覚めなければなりません。