第六十九話 使命

拙著「こころの琴線」(終わりにあたって)を以下紹介します。

「人間にとって死とは人生の結論であります。
つまり、終わりがあるわけです。
原因と結果の法則、つまり、因果律に基づけば、始まりがあるから終わりがある。
まさに、誕生があるから死がある。
至極当然のように思われますが、果たしてそうでしょうか。
では、わたしたち人間は、未だ来ぬ未知の出来事である死に何故振りまわされて生きているのでしょうか。
因果律に基づけば、原因、つまり、誕生した時から、結果、つまり、死が決定しているわけですから、死は未知のことではなくて既知のことでなければ理屈に合いません。
すべては必然であるとする因果律に基づく考え方です。
“だから、我々はいつか必ず死ぬことを知っているのだ!”と反論される方が殆どの現代人であります。
しかし、“我々はいつか必ず死ぬ”というのは理屈に合いません。
“いつか”は未知のことで、“必ず”とは既知のことだからです。
“我々は必ず死ぬ”既知のことなら、死ぬ時期も決まっている筈です。
始まりがあるから、終わりがあるという因果律に基づいています。
“我々はいつか死ぬ”未知のことなら、死は確定事(約束事)ではない筈です。
始まりがないから、終わりがないという因果律に基づいています。
しかし、最初と最後に永遠性がある円回帰運動をしているわたしたちの“運動の光と音の宇宙”では、
始まりがあるから、終わりがない。
若しくは、
始まりがないから、終わりがある。
どちらに軍配が上がるのか、その鍵を見つけることが、知性を得た生き物・人間の課題であり続けてきた理由であり、その結論を出す時期が二十一世紀ではないでしょうか。」

軍配はどちらにあるのか、どうやら決着はついたようです。
必然性に基づく因果律、つまり、始まりがあるから、終わりがある、若しくは、始まりがないから、終わりがない、という考え方は、“自分はいつか必ず死ぬ”という現状では採択できないのは自明の理です。
問題は、偶然性に基づく最初と最後に永遠性がある円回帰運動しているわたしたちの“運動の光と音の宇宙”において、始まりがあるから、終わりがない、若しくは、始まりがないから、終わりがある、のどちらに軍配が上がるのかであります。
わたしたちが生まれ堕ちてきたとき、始まりがあったのか、それとも、始まりがなかったのかに鍵があります。
生まれ堕ちてきたのは本人の意思ではない、つまり、本人が決めたことではないことは自明です。
つまり、始まりがなかった。
そうしますと、終わりがある筈です。
“自分はいつか必ず死ぬ”ことを知ったわたしたち人間は、実は始まりがないから終わりがある、つまり、死期を自ら決める生き方しかないのです。
生きている目的とは、自己の使命とは、人生の意義とは、死期を決定することに外ならないのです。
死期を決めた人が、その後の余生を穏やかに過ごせる理由がここにあるのです。
死ぬために生きているのです。