第六十五話 実在と映像の関係

この世という生前の世界と、あの世という死後の世界があるのではなく、この世に実在の世界とそれを映す映像の世界があって、あの世という死後の世界などありません。
実在とその映像があるわけですが、実在の方は見えないため、映像の方が在る、つまり、実在だと思い込んでいるのです。
映画館のスクリーンに映っているのは映像(動画面‐アニメーション)で、在るのは映写室にある静止画フィルムだけですが、映画館の席に座っている鑑賞者は見える映像(動画面‐アニメーション)が在ると思い込み、見えない静止画フィルムの存在すら知りません。
見えるもの、聞えるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、つまり、五感で感じるものはすべて映像(動画面‐アニメーション)なのです。
見えないもの、聞えないもの、匂えないもの、味わえないもの、触れられないもの、つまり、五感で感じられないものが実在(静止画フィルム)です。
言い換えれば、運動しているものはすべて映像(動画面‐アニメーション)で、静止しているものが実在(静止画フィルム)なのです。
更に言い換えれば、『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が無い状態が実在(静止画フィルム)で、『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が在ると考えている(錯覚している)状態、つまり、幻想が映像(動画面‐アニメーション)なのです。
『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が無いとき本当の自分は在り、『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が在ると考えている(錯覚している)とき本当の自分は無いのです。
本当の自分と、『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」とは、まさに、二律背反関係にあります。
つまり、好いとこ取りの相対一元論の関係にあると言えます。
実在する本当の自分を避けて、その(不在)概念である『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」を追い求めるという、いわゆる、「無いものねだり」をしているわけです。
詰まるところ、
無いものが在り、在るものが無いのです。
それがこの世にある、映像の世界と実在の世界の関係です。
それがこの世にある、運動の世界と静止の世界の関係です。
「在る(在り方)」は静止で、「考える(考え方)」は運動です。
『今、ここ』は静止時間(虚時間=本当の時間)で、『過去・(現在)・未来』は運動時間(実時間=偽の時間)です。
わたしたち人間が「実」と考えているものが「虚=偽」であり、「虚」と考えているものが「実」なのです。
すべてが逆なのです。
考えるということは、
『過去・(現在)・未来』に『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が思いを馳せることです。
在るということは、
『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が無い状態である『今、ここ』に在るということなのです。
『考える葦』である人間だから『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」が生じるのです。
『考えない』生き物は『自分は・・・』と思う自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」など端から無いのです。