第五十九話 主観の生き物・人間

「悟り」という言葉があります。
言葉ですから、これは人間がつくった概念であり、観念であります。
わたしたち人間が「悟っていない」から、「悟り」という言葉があるわけです。
端から悟っている者には、「悟り」という概念に基づく言葉など要りません。
何故なら、「悟っていない」という観念すらないからです。
わたしたち人間だけが「悟っていない」という観念を持っているから、「悟り」という言葉を先ずつくって、そして、「悟っていない」という観念に「迷い」という言葉を当てはめたわけです。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念ですから、「悟り」は(不在)概念であって、「迷い」が実在する観念です。
「健康」という言葉がありますが、この言葉についても、「悟り」という言葉と同じことが言えます。
わたしたち人間が「健康でない」から、「健康」という言葉があるわけです。
端から健康である者には、「健康」という概念に基づく言葉など要りません。
何故なら、「健康でない」という観念すらないからです。
わたしたち人間だけが「健康でない」という観念を持っているから、「健康」という言葉を先ずつくって、そして、「健康でない」という観念に「病気」という言葉を当てはめたわけです。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念ですから、「健康」は(不在)概念であって、「病気」が実在する観念です。
「幸福」という言葉など、「悟り」や「健康」という言葉よりもはっきり言えます。
わたしたち人間が「幸福でない」から、「幸福」という言葉があるわけです。
端から幸福である者には、「幸福」という概念に基づく言葉など要りません。
何故なら、「幸福でない」という観念すらないからです。
わたしたち人間だけが「幸福でない」という観念を持っているから、「幸福」という言葉を先ずつくって、そして、「幸福でない」という観念に「不幸(不幸福)」という言葉を当てはめたわけです。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念ですから、「幸福」は(不在)概念であって、「不幸」が実在する観念です。
「生」と「死」についても同じことが言えます。
「オス」と「メス」についても同じことが言えます。
「善」と「悪」についても同じことが言えます。(「偽善」という言葉があっても、「偽悪」という言葉がないことが、悪が実在で、善など無い証明です)
「強」と「弱」についても同じことが言えます。
「賢」と「愚」についても同じことが言えます。
「富」と「貧」についても同じことが言えます。
「天国」と「地獄」についても同じことが言えます。
「神」と「悪魔」についても同じことが言えます。
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「運動」と「静止」についても同じことが言えます。
そこで、
「自己客観視」という言葉があります。
わたしたち人間だけが「自己客観視」していないから、「自己客観視」という言葉があるのです。
「自己主観視」という言葉などありません。
何故なら、わたしたち人間だけが「自己主観視」しているからです。
わたしたち人間にとって、「自己主観視」が実在する観念であって、「自己客観視」はその(不在)概念であるから、「自己客観視」という言葉があるのです。
所詮、「無いものねだり」です。
人間だけが、悟っていない、「自己客観視」していない証明であります。