第五十五話 罪意識

生きているとは静止・運動のことであり、死ぬとは静止のことです。
生・死の問題はわたしたち人間だけの問題であり、それ以外のものにとっては静止・運動の問題に過ぎません。
「殺す・殺される」問題がわたしたち人間だけの問題であり、それ以外のものにとっては「食う・食われる」問題に過ぎないのと同じであります。
だから、わたしたち人間社会だけに「善い・悪い」という問題が生じたのです。
現に、わたしたち人間も、他の動物、植物、鉱物を食って生きていますが、「食う」という行為には罪意識を持っていません。
ところが、「食う」行為と「殺す」行為は同じであるのに、「殺す」という行為には罪意識を持っている。
こんな自己矛盾を抱えて生きている人間だから精神分裂症状を来たし、自ら悩み、四苦八苦しているのです。
わたしたち人間が何気なく他の動物、植物、鉱物を食っているように、彼らは何の罪意識もなく、他の動物、植物、鉱物を殺しているのです。
生・死の問題についても同じことが言えるのです。
人間以外のものにとっては、「殺す・殺される」問題ではなく、「食う・食われる」問題であるように、「生きる・死ぬ」問題ではなく、「動く・止まる」問題に過ぎないのです。
「殺す・殺される」問題にするから、「善悪」の問題が生じるのです。
「食う・食われる」問題にするなら、「善悪」の問題は生じません。
「生きる・死ぬ」問題にするから、「善悪」の問題が生じるのです。
「動く・止まる」問題にするなら、「善悪」の問題は生じません。
人間だけがエデンの園にある「善悪」の判断をする知識の禁断の実を食べたことによって極楽のエデンの園を追放された、という聖書の話と相対性理論とは一枚岩のような気がしてなりません。
相対性理論の原点は(旧約)聖書にあるとしか思えません。
生きているとは動いていることであり、死ぬとは動きが止まることであって、生・死の問題は動・静の問題であり、動くということが錯覚の原因になっている。
わたしたち人間を迷わせ罪意識を持たせた「二元論」とは「相対運動論」に外なりません。