第五十四話 死期は四季

動いているものはすべて、静止しているものの映像です。
映画館のスクリーンの映画(動画面)は、映写機に設置した静止画フィルムを動かすことで映った映像です。
ところが、スクリーンに映った動く映像、つまり、動画面を見たわたしたちは、恰も現実の世界、つまり、実在だと思い込んでいます。
“いや!あれは映画であって、現実なんて思っていない!”と言われるでしょう。
それなら、どうして映画を見て一喜一憂するのでしょうか。
“いや!あれは感情移入、つまり、主人公と自分をラップさせ、主人公の気持ちになっているだけで、現実なんて思っていない!”と言われるでしょう。
この感情移入というのが曲者なのです。
映画に出演していないただの観客なのに、恰も、映画の主人公になったつもりでいるわけで、自己同化とも言います。
映画鑑賞とは、まさしく、夢を見ているのと同じ状況にある。
違うのは、映画鑑賞では観客はスクリーンに映っている映像(動画面=アニメーション)をただの映画だと思っているのに対して、夢の真只中では、夢を夢(映画)だと思わずに現実(実在)だと思っている点です。
眠りから覚めてはじめて夢(映画)だったと気づくわけです。
そこで問題なのは、夢(映画)の中で自分、つまり、観客が主人公として出演しているかどうかの点にあります。
“夢を見ているのは自分であるのだから、当然夢の中の主人公は自分しかない!”と思っておられるでしょう。
つまり、映画の出演者であり観客でもある二役をこなしているというわけです。
映画の出演者が観客として自分が出演した映画を見るということは、映画は生放送の実況ではなくて、過去に撮影したフィルムの再生であることを意味しています。
つまり、出演者は過去の撮影現場にいたのです。
そんな出演者が、過去に撮影したフィルムの再生である映画を見て一喜一憂するでしょうか。
一喜一憂するという感情移入は、映画に出演していないから起こる現象なのです。
だから自己同化というわけです。
他人の状況を恰も自分の状況に置きかえることを自己同化と言うのですから。
出演者だからこそ、過去に撮影したフィルムの再生である映画を見て、“これは単なる映画であって、現実ではない!”と思えるのです。
出演者でないからこそ、過去に撮影したフィルムの再生である映画を見ても、現実だと感情移入して一喜一憂するわけです。
そうしますと、夢という映画でも同じわけで、自分が出演している夢(映画)なら、“これは単なる夢であって、現実ではない!”と思える筈です。
ところが、わたしたちは、夢の真只中では、夢(映画)を現実、つまり、実在だと錯覚している。
その証拠に、眠りから覚めてはじめて夢(映画)だったことに気づくのです。
寝ても起きても、映像を現実だと錯覚しているのが、わたしたち人間です。
眠っていても覚めていても、映像を現実だと錯覚しているのが、わたしたち人間です。
動いているものは映像で、実在する、つまり、現実は静止しているものであることを理解していないからです。
動いている生は映像で、静止している死こそが実在、つまり、現実であることを理解していないからです。
だから、死はある日突然やって来るのです。
死と背中合わせで生きていることを理解できれば、死はある日突然やって来ることはありません。
つまり、死期とは随所にあるのです。
だから、死期は四季なのです。