第五十二話 錯覚(言葉)の生き物・人間

わたしたち人間だけが、すべてのものごとを相対的(二元論的)に捉えているから、常に相反する二つの現象を言葉にしたわけです。
言葉の本質は、一つの実在を相反する二つの現象で表現することにあると言い切ってもよいでしょう。
つまり、言葉というものはすべて二つの反義語で成り立っているわけです。
「好き」という言葉には必ず「嫌い」という反義語がある。
「愛」という言葉には必ず「憎」という反義語がある。
「男」という言葉には必ず「女」という反義語がある。
「生」という言葉には必ず「死」という反義語がある。
「善」という言葉には必ず「悪」という反義語がある。
「強」という言葉には必ず「弱」という反義語がある。
「賢」という言葉には必ず「愚」という反義語がある。
「富」という言葉には必ず「貧」という反義語がある。
「幸福」という言葉には必ず「不幸」という反義語がある。
「天国」という言葉には必ず「地獄」という反義語がある。
「健康」という言葉には必ず「病気」という反義語がある。
「神」という言葉には必ず「悪魔」という反義語がある。
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「動」という言葉には必ず「静」という反義語がある。
第四十九話【「静止」と「運動」】でお話しましたように、「静止」は絶対一如(一元)であるのに対して、「運動」は静止・運動相対二元でありますから、実在するの(「在り方」)は「静止」であって、「運動」は映像(「考え方」)に過ぎない。
遍在するのは「静止」であって、「運動」は偏在するわけです。
「静」が実在で、「動」は「静」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
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「悪魔」が実在で、「神」は「悪魔」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「病気」が実在で、「健康」は「病気」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「地獄」が実在で、「天国」は「地獄」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「不幸」が実在で、「幸福」は「不幸」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「貧」が実在で、「富」は「貧」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「愚」が実在で、「賢」は「愚」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「弱」が実在で、「強」は「弱」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「悪」が実在で、「善」は「悪」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「死」が実在で、「生」は「死」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「女」が実在で、「男」は「女」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「憎」が実在で、「愛」は「憎」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「嫌い」が実在で、「好き」は「嫌い」の不在概念(「考え方」)という映像に過ぎない。
「静」・・・「悪魔」、「病気」、「地獄」、「不幸」、「貧」、「愚」、「弱」、「悪」、「死」、「女」、「憎」、「嫌い」という言葉が最初につくられて、その不在概念である、「動」・・・「神」、「健康」、「天国」、「幸福」、「富」、「賢」、「強」、「善」、「生」、「男」、「愛」、「好き」という言葉がその反義語としてつくられたのです。
ところが、わたしたち人間は、「動」・・・「神」、「健康」、「天国」、「幸福」、「富」、「賢」、「強」、「善」、「生」、「男」、「愛」、「好き」という言葉を好い言葉と思い込み、「静」・・・「悪魔」、「病気」、「地獄」、「不幸」、「貧」、「愚」、「弱」、「悪」、「死」、「女」、「憎」、「嫌い」という言葉を悪い(好くない)言葉と思い込むようになってしまったのです。
この間違った思い込みが、錯覚の生き物・人間をつくったのです。