第五十一話 絶対性(全体感)と相対性(部分観)

わたしたち人間だけが、すべてのものごとを相対的(二元論的)に捉えている。
言い換えれば、部分観で生きていて、全体感を忘れてしまっている。
すべてのものごとは、部分で構成され全体を成しています。
自動車でたとえて言うと、エンジンやハンドルやタイヤといった部分(部品)で構成されたものが自動車です。
自動車の目的は目的地まで走ることで、そのために、エンジンもハンドルもタイヤも機能するわけです。
一方、エンジン独自の目的は動力を発生させることであり、ハンドル独自の目的は走行方向を維持したり修正することであり、タイヤ独自の目的はエンジンから受けた動力を道路に伝えることです。
エンジン、ハンドル、タイヤといった部分(部品)がそれぞれの独自の目的のために、それぞれの機能を発揮したら、自動車という全体の目的を果たすことは出来なくなります。
そのために、ドライバーが制御する役目を持っているわけです。
アクセルペダルは速度を増すための部分(部品)であるのに対して、ブレーキペダルは速度を減らすための部分(部品)であるのに、アクセルペダルは勝手に速度を増そうとし、ブレーキペダルも勝手に速度を減らそうとすると、自動車は事故を起こして目的地に行くことはできなくなる。
それを制御するのがドライバーなのです。
わたしたち人間は、他の生き物と同じ地球号という自動車の一部分(部品)でしかないのです。
他の生き物は、自動車(地球号)という全体の一部分(部品)であることを自覚して、地球号の「想い」というドライバーの指示に従って生きています。
つまり、彼らは地球号の法則を絶対(全体)だとして生きています。
ところが、わたしたち人間は、地球号と自分たちを対等(相対=二元)のように錯覚して、あわよくば、自分たちが主人(全体)になって、地球号を下僕(部分・部品)にしようとしているのです。
わたしたち人間が、間違った「二元論」、つまり、好いとこ取りの相対一元論に嵌った原因がここにあります。
エンジンが主人(全体)になったつもりでいて、自動車の「想い」であるドライバーの指示を無視して勝手に動いているようなものです。
つまり、わたしたち人間は自分たちと地球とを相対的(対等)に捉えて生きています。
これでは地球号という自動車は目的地まで走ることは出来ません。
全体あっての部分であるのです。
絶対あっての相対であるのです。
絶対性理論あっての相対性理論であるのです。