第五十話 相対性理論と絶対性理論−(その1)

生きているとは、動いていることです。
死ぬとは、動きが止まることです。
生・死の問題は、動・静の問題であると言い換えてもいいわけです。
この動くということが錯覚の原因になっています。
新田哲学で言うところの「二元論」とは「運動論」に外なりません。
「運動論」を論じるのが「物理学」ですから、「二元論」とは「物理学」に外なりません。
「運動論」を論じるのが「天文学」ですから、「二元論」とは「天文学」に外なりません。
ニュートンやアインシュタインが宇宙の法則を論じた「物理学」や「天文学」は、「二元論」を基にした「運動論」です。
ところが、「物理学」や「天文学」が論じる肝腎の宇宙が、137億年前に起こったビッグバンによって誕生した(運動)宇宙しか論じておらず、アインシュタインの言葉を借りれば、ビッグバン以前の宇宙は神の領域として片付けてしまっているのです。
ビッグバンによって誕生した宇宙は、四つの力、つまり、重力・強い力・弱い力・電磁気の力によって動き出した(運動)宇宙ですから、ビッグバン以前の宇宙は当然、(静止)宇宙であった筈です。
ビッグバン以前の宇宙が(静止)宇宙であり、ビッグバン以降の宇宙は(静止・運動)宇宙である筈、言い換えれば、ビッグバン以前の(静止)宇宙が実在する(「在り方」の)宇宙であり、ビッグバン以降の(静止・運動)宇宙は実在しない(「考え方」だけの)映像宇宙に過ぎない筈です。
ところが、「物理学」も「天文学」も、ビッグバン以降の(運動)宇宙だけを論じた「運動論」であって、ビッグバン以前の(静止)宇宙をも論じた「静止・運動論」ではないわけです。
そのことを強烈に指摘したのがハイゼンベルグの「不確定性原理」であったわけです。
“位置を決定するなら、運動量(速度)は決定できないし、運動量(速度)を決定するなら、位置は決定できない”
分かり易く言い換えれば、“静止している場所では運動することによって生じる速度は決められないし、運動することによって生じる速度が決まれば、静止している場所は決められない”という至極当たり前のことを言っているのです。
つまり、静止は静止絶対一如(一元)であるのに対し、運動は静止・運動相対二元だと言っているのです。
更に平たく言えば、静止しているものだけが実在して(「在り方」)、運動しているものは、静止・運動・静止・運動・・・の繰り返しである映像(「考え方」)に過ぎないと言っているのです。
更に平たく言えば、『今、ここ』(厳密に言えば、『今』)という時間だけが実在して(「在り方」)、『過去・(現在)・未来』という時間は映像(「考え方」)に過ぎないと言っているのです。
アインシュタインが相対性理論で宇宙を「時空の世界」として、四次元要因として「空間」の上に君臨させた「時間」とは、過去から現在を経由して未来へと流れる、いわゆる、「心理的な時間の矢」とする『過去・(現在)・未来』であったわけです。
ビッグバン以降の宇宙のみならず、ビッグバン以前の宇宙も論じてこそ、すべてを語ったことになるわけで、ビッグバン以降だけの宇宙を論じても絵に描いた餅に過ぎません。
拙著「(静止)宇宙論」で絶対性理論を展開した理由がここにあるのです。
神が天地創造主であるなら、その神を創造した者は一体誰であるのか。
死んだあとの世界があるのか、ないのか。
この永遠の課題に足を踏み入れるには、絶対性理論を論じる必要があるのです。
その時、人類は宗教という自縄自縛の足枷から解放されるのです。