第五話 自分の正体

『今、ここ』を生きるとは、『過去・現在・未来』に想いを馳せないで生きることに外なりません。
では、『過去・現在・未来』に想いを馳せるのは一体誰でしょうか。
自分が『過去・現在・未来』に想いを馳せるのです。
では自分とは一体誰でしょうか。
この自分というのが一番の曲者です。
実は人間だけが、『自分は・・・』と思っているのです。
「人間は考える葦(生き物)である」と言われるのは、何をするにも、大げさに言えば、生きている間中、つまり、一生『自分は・・・』と思って生きているのです。
つまり、考えて生きているのです。
他の生き物は、『自分は・・・』と思っていません。
つまり、考えて生きていません。
こまかいことを言いますが、「思う」と書いたわけで、「想う」とは書いていないことに注目して欲しいのです。
他の生き物は、『自分は・・・』と思わずに(考えずに)、ただ『・・・・・・』と想って(感じて)いるだけです。
思う(考える)ことと想う(感じる)こととは違うのです。
想いを馳せることは考えることと違って、想いを連ねること、つまり、連想することに外なりません。
思う(考える)ことには、『自分は・・・』が付いています。
想う(感じる)ことには、『自分は・・・』は付いていません。
想いを馳せる(連想する)ことには、『自分は・・・』が付いています。
この『自分は・・・』が自我意識の正体です。
いわゆる『エゴ』という奴で、わたしたち人間はこの『自分は・・・』という『エゴ』を、「心」や「魂」や「霊」や「精神」と考え違いをして、本来の自分である「肉体」と区分けしているのです。
これはとんでもない錯覚です。
他の生き物は、『自分は・・・』なんて絶対に思いません(考えません)。
だから、彼らには自我意識、つまり、『エゴ』はないから、「心」や「魂」や「霊」や「精神」もありません。
だから、彼らは、神社仏閣に平気で小便をひっかけるし、「神さんの罰があたる」などといった迷信も信じません。
だから、彼らは『自分もいつか必ず死ぬ』とも思わない(考えない)のです。
『自分は・・・』という自我意識、つまり、『エゴ』を持っている人間だけが、「心」や「魂」や「霊」や「精神」の存在を信じ、神社仏閣に賽銭を払い願いごとをし、祟りを怖れ、「神さんの罰があたる」などと迷信を信じ、何もない墓に手を合わせているのです。
これらの呆れ果てた愚かな行為は、すべて、『過去・現在・未来』に想いを馳せた結果であります。
『今、ここ』を生きていれば、『自分は・・・』という自我意識、つまり、『エゴ』という「心」や「魂」や「霊」や「精神」は消えてなくなるのです。
そうすれば、悩みや苦労と無縁の人生を送ることができるのです。