第四十九話 「静止」と「運動」

生きているとは、動いていることです。
死ぬとは、動きが止まることです。
生・死の問題は、動・静の問題であると言い換えてもいいわけです。
この動くということが錯覚の原因になっています。
新田哲学で言うところの「二元論」とは「運動論」に外なりません。
モノの豊かさとモノの不足。
金持ちと貧乏。
二つの現象が顕れるから、その間を往来する、つまり、運動する。
逆に言えば、
運動するから、二つの現象、つまり、映像が顕れる。
言い換えれば、
生きているから、「二元論」の罠に落ちる。
平たく言えば、
悩みや四苦八苦は、生きている者の宿命とも言えます。
では、他の生き物も生きているから、悩みや四苦八苦もある筈です。
ところが、彼らには悩みや四苦八苦は一切ない。
わたしたち人間と一体どこが違うのでしょうか。
その鍵は、「運動」の正体にあります。
ちょっと難しい表現を使いますが、よく考えてください。
「運動」は実体があるのではなくて、映像ですから正体があると言った方が適切です。
冒頭に述べましたように、生・死の問題は動・静の問題、つまり、「運動」と「静止」の問題なのですが、「静止」は絶対一如(一元)に対して、「運動」は相対二元です。
絶対一如(一元)とは、一つしかない、つまり、「静止」とは「静止」だけです。
相対二元とは、二つの現象の間を往ったり来たりする、つまり、「静止・運動」の二つです。
ここのところが極めて重要です。
「静止」とは「静止」だけ、つまり、「静止一如(一元)」ですが、「運動」とは「静止と運動の繰り返し」であって、「運動」だけの「運動」、つまり、「運動一如(一元)」なんてあり得ないのです。
静止とは一点に止まっていることですから「静止一如(一元)」です。
運動とは二点の間を往来することですから「静止・運動二元」です。
静止しているとは静止絶対一如(一元)、つまり、静止・静止・静止・静止・静止・静止ですが、運動とは静止・運動相対二元、つまり、静止・運動・静止・運動・静止・運動の繰り返しに外なりません。
言い換えれば、
死とは死絶対一如(一元)ですが、生きているとは死・生相対二元に外ならない、つまり、死・生・死・生・死・生・死・生の繰り返しであって、生一如(一元)ではないのです。
更に重要なことは、死は実体があって、生は死のない状態、つまり、不在概念に過ぎない点です。
平たく言えば、死だけが在って(「在り方」)生は概念、つまり、「考え方」(映像)に過ぎない。
そこで、わたしたち人間と他の生き物の違いについての話に戻りましょう。
わたしたち人間は、生きている、つまり、死・生・死・生・死・生・死・生の繰り返し、言い換えれば、「在り方」・「考え方」・「在り方」・「考え方」・「在り方」・「考え方」の繰り返しの中の「考え方」に重きを置いているのに対して、他の生き物は「在り方」のみで生きている違いがあるからです。
わたしたち人間は本能とは別に理性(知性)があって、理性(知性)の部分、つまり、考えているもの(「考え方」)を自分だと思っていますが、他の生き物は本能のまま、つまり、「在り方」一如(一元)で生きているからです。
『自分は・・・』と思う者が自分だと思っている自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」を自分だと思っているのは、わたしたち人間だけなのです。
「在り方」・「考え方」・「在り方」・「考え方」・「在り方」・「考え方」を繰り返す、つまり、死・生・死・生・死・生・死・生を繰り返す、つまり、静止・運動・静止・運動・静止・運動を繰り返すから、「映像」=運動=不在概念を追い求める、「無いものねだり」をする結果、悩みや四苦八苦が生じるのです。
『過去・(現在)・未来』に想いを馳せるという「無いものねだり」をするから、悩みや四苦八苦が生じるのです。
「在り方」一如(一元)で生きている他の生き物は、死一如(一元)で生きている、つまり、静止一如(一元)で生きている、つまり、「無いものねだり」をしないから、悩みや四苦八苦がないのです。
『今、ここ』一如(一元)で生きている他の生き物は、「無いものねだり」をする『自分は・・・』という自我意識、つまり、エゴという「心」や「魂」や「霊」や「精神」がないから、悩みや四苦八苦がないのです。