第四話 現在と『今、ここ』

新田哲学で主張しています『今、ここ』とは、いわゆる『過去・現在・未来』の中の『現在』ではありません。
『過去・現在・未来』の中の『現在』の他の表現として、『今』や『現在この瞬間』や『今この瞬間』を同じ意味合いで、『今、ここ』を使っておられるのが一般ですが、新田哲学では、まったく意味合いが違います。
他の生き物たちの生きざまが、まさに新田哲学の言うところの『今、ここ』です。
では一体どこが違うのか。
他の生き物は、「死」ということを知りません。
つまり、“自分もいつか必ず死ぬ”ことを知りません。
わたしたち人間だけが、“自分もいつか必ず死ぬ”ことを知っています。
人間と他の生き物の決定的な違いはこの点にあります。
「死」を知った人間。
「死」を知らない他の生き物。
悩みや苦労といったものは人間だけにあって、他の生き物にはありません。
人生の悩み、苦労と言っても、他生の悩み、苦労とは言いません。
他の生き物には悩み、苦労が無いのは、「死」を知らないからです。
人間だけに悩み、苦労が有るのは、「死」を知っているからです。
つまり、悩み、苦労の行き着く先は「死」であるからです。
ではなぜ人間だけが「死」を知ったのでしょうか。
いま生きている人間にとって、「死」とは未だ来ぬ『未来』のことです。
未だ来ぬ『未来』の出来事である「死」を知るということは、『未来』を知ることであり、これは土台不可能なことです。
つまり、人間だけが「死」を知った理由は、「死」を知ったのではなく、「死」について考えただけのことであり、「死」について想いを馳せただけのことであり、未だ来ぬ「死」という『未来』に想いを馳せただけのことなのです。
人間だけが「死」を知っているのは、人間だけが「死」に想いを馳せているからであり、人間だけが『未来』に想いを馳せているからです。
新田哲学の言う、デジタル的な『今、ここ』を生きている他の生き物が「死」を知らない理由は、一切、『過去』や『未来』に想いを馳せないからです。
『未来』の出来事を限りなく近いアナログ的な『今』や『現在この瞬間』や『今この瞬間』である『現在』に引き寄せる人間だけが、「死」に想いを馳せる、つまり、「死」を知ることになるのです。
『未来』の出来事である「死」を連続的、つまり、アナログ的に捉えるから、「死」を『現在』にまで引き寄せる羽目に陥るのです。
『未来』の出来事である「死」を非連続的、つまり、デジタル的に捉えるなら、「死」を『現在』にまで引き寄せる羽目に陥りません。
『今、ここ』を『過去・現在・未来』の時制(tense)と同じ次元で捉えないことが鍵です。