第三話 新田哲学の『今、ここ』

新田哲学には多くの独自のキーワードがあります。
『今、ここ』という言葉も新田哲学にとっては重要なキーワードです。
『今、ここ』という言葉自体は、多くの人たちが日常の中で使っている言葉で、決して、新田哲学独自の言葉ではありません。
『今、ここ』と同じような意味で、『今』、『現在この瞬間』、『今この瞬間』といったように、『現在』という三つの時間の名称の一つの代名詞のように捉えられているようですが、新田哲学では、『現在』とはまったく違った次元で『今、ここ』を捉えています。
三つの時間の名称と申しましたのは、『過去・現在・未来』のことで時制(tense)とも言います。
国語や英語といった語学には必ず動詞の時制(tense)形というものがあります。
過去形・過去完了形・過去進行形・現在形・現在完了形・現在進行形・未来形・未来完了形・未来進行形といったものを総称して動詞の時制(tense)形と言い、時制(tense)の一つとして『現在』があるわけです。
新田哲学以外のところで使われている『今、ここ』は、およそ『現在』という一つの時制(tense)として捉えられているようで、『今』、『現在この瞬間』、『今この瞬間』といった表現も同じ意味合いで使われています。
コンピュータを駆使した情報化社会はデジタル社会とも言われており、「地上デジタル化」がまもなくやって来ると言われている現代社会ですが、デジタルとは非連続の情報と言ってもいいでしょう。
一方、現在行われているテレビ放送はアナログ情報に基づいているわけで、アナログとは連続の情報と言ってもいいでしょう。
高度情報化社会を構築するためには、テレビとコンピュータを一体化させなければなりませんが、デジタル放送をしなければ、コンピュータと同じ仕事をテレビにさせることができないのです。
つまり、コンピュータは非連続の情報しか処理できないのです。
何を言いたいかと申しますと、新田哲学で使われている『今、ここ』はデジタル的であるのに対し、世間一般で使われている『今、ここ』はアナログ的であるわけです。
これは何を言っているのかと申しますと、『過去・現在・未来』という三つの時制(tense)は、厳密に言えば、『現在』という時制(tense)などなく、『過去』と『未来』という二つの時制(tense)しかないということなのです。
一般的に使われている『現在』や『今』、『現在この瞬間』、『今この瞬間』とは、厳密に言えば、限りなく『現在』に近い『過去』、若しくは、限りなく『現在』に近い『未来』で、『現在』という時制(tense)はないのであって、あるのはまったく違った次元の『今、ここ』しかないのです。
つまり、『今、ここ』と『過去』や『未来』に繋がる『現在』とは非連続である、デジタルであると言えるわけです。
新田哲学の重要なキーワードである『今、ここ』をやさしく理解してもらえる事がこれからの課題であるのですが、先ずは、『今、ここ』と『現在』とはまったく違った代物であることを理解してほしいと思います。