第二十七話 実在とその不在概念

今までお話したことをまとめてみますと、
実在とは、全体であり、絶対であり、静止であり、本質であります。
現実(映像)とは、部分であり、相対であり、運動であり、本質の不在概念であります。
言い換えれば、
実在とは絶対静止一元であり、現実(映像)とは相対運動二元であります。
生まれるということは静止していたものが運動しはじめることであり、生きるということは運動し続ける(静止・運動・静止・運動・・・を繰り返す)ことであり、死ぬということは運動し続けてきた(静止・運動・静止・運動・・・を繰り返してきた)ことが静止することに外なりません。
わたしたち人間だけが、誕生・生・死と勝手に言っているだけのことです。
実在とは絶対静止一元でありますから、死が実在であり、生は死の不在概念ということになります。
わかり易く言えば、わたしたちが生きているということは、死・生・死・生・死・生・・・を繰り返すことに外ならず、しかも、死が実際在って、死のない状態を生と言っているだけのことです。
『今、ここ』が静止、つまり、死であって、『過去・(現在)・未来』が運動ですから、死・生・死・生・死・生・・・を繰り返すということは、『今、ここ』・『過去・(現在)・未来』・『今、ここ』・『過去・(現在)・未来』・『今、ここ』・『過去・(現在)・未来』・・・の繰り返しに外ならないわけです。
わたしたちが生きるということは、生き続けている(運動し続けている)と思っていますが、実は、死んでは生き・死んでは生き・死んでは生き・・・を繰り返しているのであって、実在は死であって、生は死の不在概念に過ぎないことに気づかなければなりません。
死が本質であり実在であり、生は死の不在概念である映像です。
同じことが、相反する(実際には相反しているのではなくて、補完し合っている)二つの現象すべてに当てはまります。
生きることと死ぬこと→死ぬことが本質であり実在であり、生きることは死ぬことの不在概念である映像。
善いことと悪いこと→悪いことが本質であり実在であり、善いことは悪いことの不在概念である映像。
強いことと弱いこと→弱いことが本質であり実在であり、強いことは弱いことの不在概念である映像。
賢いことと愚かなこと→愚かなことが本質であり実在であり、賢いことは愚かなことの不在概念である映像。
金持ちと貧乏→貧乏が本質であり実在であり、金持ちは貧乏の不在概念である映像。
幸福と不幸→不幸が本質であり実在であり、幸福は不幸の不在概念である映像。
天国と地獄→地獄が本質であり実在であり、天国は地獄の不在概念である映像。
健康と病気→病気が本質であり実在であり、健康は病気の不在概念である映像。
神と悪魔→悪魔が本質であり実在であり、神は悪魔の不在概念である映像。
健康を追いかけ病気を避けようとし、神を追いかけ悪魔を避けようとしているわたしたち人間は、まさに錯覚生き物であります。
新田哲学の言う「二元論」とはこのことであります。