第二十六話 実在と現実(映像)

主体であるものが全体であり実在である。
従体であるものが部分であり映像である。
新田哲学の言う「全体と部分の相対性の法則」の骨子であります。
実在と映像についてもう少し詳しくお話してみましょう。
わたしたちは、運動を絶対運動と錯覚しています、つまり、運動は運動し続けていると思っています。
絶対というのは静止しかなく、相対というのは静止と運動の繰り返しを言うのです。
言い換えれば、一元が絶対であり、二元は相対である。
静止とは一点に止まることであり、運動とは二点の間を移動することであると前にお話しました。
静止とは静止一如(一元)であるのに対し、運動とは静止・運動二元であって、運動ばかりする運動一如(一元)なんてことはあり得ないのです。
ところがわたしたちは、運動するとは運動し続けているものだと錯覚しているのです。
運動とは、静止・運動・静止・運動・静止・運動・・・の二元繰り返しなのです。
静止とは、静止・静止・静止・静止・静止・静止・・・一如(一元)なのです。
映画である動画像(アニメーション)は実体のない映像であり、それは、映写機に取り付けた映画フィルムに光を当てて回して、白いスクリーンに映し出されたただの映像であるのに対して、その基になる映画フィルムは一枚一枚のスナップ写真、つまり、静止画フィルムが在る(実在する)だけであることがその証明であります。
静止画フィルムが実在、つまり、主体であり、動画像(アニメーション)は映像、つまり、従体であるわけです。
静止(絶対静止=絶対運動)しているものが実在、つまり、主体であり、運動(相対運動)しているものは映像、つまり、従体であるわけです。
平たく言えば、
止まっているものが実在であり、動いているものは映像であるのです。
止まっている『今、ここ』が実在であり、動いている『過去・(現在)・未来』が映像であるのです。
わたしたちが現実だと思っている『現在』を含む『過去・(現在)・未来』は映像なのです。
新田哲学の最も核になるポイントがここにあります。