第十一話 死が究極の解放

四万十川の綺麗な結晶体になった水でも、隅田川や淀川のヘドロのような水でも、水蒸気となって雲や風になれば、同じ純粋なH2Oになる。
生きている間に悟りを得たような人間でも、殺人のような罪を犯した人間でも、死ねば同じである。
つまり、生きている間は、綺麗な結晶体の水と、へドロのような汚れた水の違いはあるが、死ねば、その違いは消滅する。
生きるということは、違いが生じる、つまり、差別が生じる。
死ぬということは、違いが失くなる、つまり、差別が失くなる。
H2Oという分子化合物、つまり、水で例えれば、
H2Oという分子化合物は、摂氏100度以上なら水蒸気(気体)になり、水蒸気(気体)は、その形は容器に束縛され、体積も容器に従うが、その動きは100%自由自在である。
H2Oという分子化合物は、摂氏100度と摂氏0度の間なら水(液体)になり、水(液体)は、その形は容器に束縛され、体積も容器に従うが、その動きはある程度自由である。
H2Oという分子化合物は、摂氏0度以下なら氷(固体)になり、氷(固体)は、その形は容器に束縛されず一定であり、体積も容器に従わず一定であり、その動きは無い(厳密には定位置で振動している)。
こういった事柄から導き出される結論は、
誕生するということは、止まって(静止して)いるものが動き出す(運動を始める)ことに外なりません。
生きるということは、動き(運動し)続けることに外なりません。
死ぬということは、動き(運動し)続けているものが止まる(静止する)ことに外なりません。
つまり、違いが生じる、差別が生じるということは、動き(運動し)続けるという、生きるということの特性であり、違いが失くなる、差別が失くなるということは、動き(運動し)続けているものが止まる(静止する)という、死ぬということの特性であるのです。
それなのに、わたしたち人間は、死ぬことを怖れているのです。
甚だしい勘違いをしているものです。