第四十六章 言葉の罠(7)−死の正体

“はじめに言葉ありき”ではなく、
“はじめに沈黙ありき”であった。
言い換えれば、
“はじめに「あ」ありき”ではなく、
“はじめに「ん」ありき”であった。
更に言い換えれば、
“はじめに健康ありき”ではなく、
“はじめに病気ありき”であった。
そして、
言葉の人間社会では、
“はじめに生ありき”ではなく、
“はじめに死ありき”であった。
では、
音の自然社会では、
生(生命)はどんな音で、死はどんな音なのだろうか?
拙著「自殺のすすめ」の「はじめに」と第百章(超対性の死(超対性理論))と「おわりに」を引用してみよう。

はじめに
日本の年間自殺者が11年連続で3万人を超えたそうです。
「これはえらいことだ!」
「何とかしないと、ますます自殺者が増えていく!」
政府が対策を考え始めたそうですが、この流れを絶対に止めることはできないでしょう。
なぜなら、自殺願望は人間の本質的欲望、つまり、人間だけが持ち合わせている本能欲だから、食べる、セックスをする欲望を止めることができないのと同じぐらい不可能なことです。
食べることの欲望には、わたしたち人間は目覚めているし、セックスをすることの欲望は、わたしたち人間は教えられなくとも自然に覚えるものなのに、自殺することの欲望だけは、わたしたち人間はいつの頃からか何者かによって抑圧されてきたようです。
宗教がその犯人の一人であることは確かです。
科学も多分その犯人の一人であることは確かなようです。
本章でその検証はしてみたいと思いますが、「自殺のすすめ」は、宗教や科学を糾弾するのが目的ではなく、飽くまで、自殺することは決して悪いことではないことを検証するのが目的です。
自殺したら、自分だけでなく、家族にまで迷惑が掛かる。
自殺したら、成仏できず、地獄に堕ちる。
わたしたちひとり一人が、こういった迷信をいつの頃からか持ち始めて、今では、無意識下で自殺を否定してしまうようになったのですが、何故、自殺したら、自分だけでなく、家族にまで迷惑が掛かるのでしょうか。
世間体が悪いという話だけで、自殺しても生命保険は下りるのですから、却って、家族に迷惑を掛けるどころか、恩恵を与えるのではないでしょうか。
何故、自殺したら、成仏できず、地獄に堕ちるのでしょうか。
死んだことのない人間が言っているのに、何故そんなことが確信できるのでしょうか。
死んだことのある人間に聞いたのでしょうか。
誰も絶対否定できない見たことのない話をするのが宗教の罠なのですが、もちろん絶対肯定もできないことを彼らに言ってやるべきです。
わたしは単純に考えてみました。
わたしたち人間だけが、未だ来ぬ未来の出来事である死を知っているという事実に注目してください。
他の生きものたちは、死ぬことを知らないから、自殺することはできないという事実に注目してください。
死ぬことを知ったことが恩恵でないと、この理屈は成り立ちません。
死ぬことを知ったことが不幸なら、他の生きもののように、死を知らないで生きた方がいいことになります。
ところが、死を知ったわたしたち人間が、他の生きものの上に立っているではないでしょうか。
やはり、死を知ったことが不幸ではなく、恩恵だったのです。
それなら、自殺することは、自らその恩恵を手に入れる行為に他ならないことになります。
まさに、「自殺のすすめ」の本意はここにあるのです。

第百章 超対性の死(超対性理論)
月は地球の子供(部分)です。
地球は太陽の子供(部分)です。
太陽は銀河の子供(部分)です。
銀河は運動宇宙の子供(部分)です。
運動宇宙は静止宇宙の子供(部分)です。
そして、
わたしたち人間も、地球の子供(部分)です。
従って、
わたしたち人間と月は兄弟ということになります。
そうしますと、
兄弟星というのは、自転と公転が同じ周期である尽数比という特徴を持っていますから、わたしたち人間と月の自転・公転は同じ周期であるわけです。
月の自転=公転=一日=一年ですから、わたしたち人間の自転=公転=一日=一年ということになります。
そこで、
自転とは何を意味しているでしょうか?
公転とは何を意味しているでしょうか?
森羅万象、宇宙はすべて、
(1)全体と部分の相対的法則
(2)二元論
(3)在り方と考え方
の法則に則しています。
まさに、
自転とは絶対性を意味しています。
公転とは相対性を意味しています。
従って、
自転と公転が尽数比である月と地球のように、自転と公転が尽数比であるわたしたち人間と月は、絶対性と相対性の相俟った関係であるわけです。
これは一体何を意味しているでしょうか?
つまり、
死を知ったわたしたち人間は、絶対性の死と相対性の死の相俟った存在であることがわかってくるわけです。
絶対性の死とは、一日の死であり、朝・昼・夕方・夜を繰り返す死です。
相対性の死とは、一年の死であり、春・夏・秋・冬を繰り返す死です。
そして最後に、
絶対性の死も、相対性の死も超えた、超対性の死を迎えるのです。

おわりに
死を知ったことが不幸ではなく、恩恵だったとするなら、自殺することは、自らその恩恵を手に入れる行為に他なりません。
この事実を、わたしたち人間が実感するには、第百章で述べましたように、絶対性の死と相対性の死を超えなければならないようです。
それこそが、超対性の死であるのです。
「自殺のすすめ」の結論はここにあったのです。
と同時に、「自殺のすすめ」を実感するには、絶対性理論のベースになっている宗教と、相対性理論のベースになっている科学を超えなければなりません。
超対性理論のはじまりがここにあるのです。
その橋渡しとして、最後の第百章を「超対性の死(超対性理論)」にしました。
あとは、次の作品「超対性理論」にバトンタッチすることで締めたいと思います。