第八十三章 光速度

我々人間の一生は、どこかで逆さまになってしまった。
言い換えれば、
我々人間だけが、全体感を忘却し、部分観で生きるようになったからである。
つまり、
部分観で生きている我々人間は、
不完全(不完璧)な潜在能力=不完全(不完璧)な五感機能=不完全(不完璧)な肉体=不完全(不完璧)な記憶によって、
超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死=いわゆる誕生
および、
超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死=いわゆる死
が欠落してしまったのである。
その結果、
絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))
→ 
超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死
→ 
相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))
=いわゆる生
という振り子運動の一生になってしまったのである。
まさに、
全体感の生き方が円回帰運動であるのに対して、部分観の生き方が振り子運動に他ならないのである。
特に、
視覚動物である我々人間にとって、
不完全(不完璧)な潜在能力=不完全(不完璧)な五感機能=不完全(不完璧)な肉体=不完全(不完璧)な記憶によって夢を見るようになったのである。
つまり、
視覚動物である我々人間にとっては、
記憶は映像(光景)なのである。
だから、
夢は見るものなのである。
まさに、
視覚動物であるゆえに、我々人間は部分観の生きものになってしまったのである。
一方、
嗅覚動物である犬にとっては、
記憶は匂いなのである。
ところが、
彼らは全体感で生きているから夢を匂わないのである。
仮に、
彼らも部分観で生きているなら夢を見るのである。
なぜなら、
彼らも視覚で見ているからである。
他方、
生れつき盲目である人間にとっては、
記憶は音なのである。
ところが、
彼らは全体感で生きているから夢を聞かないのである。
仮に、
彼らが後天的な盲目であるなら、
記憶は映像(光景)なのである。
だから、
彼らは部分観で生きているから夢を聞かないで、夢を見るのである。
結局の処、
夢は部分観で見るものなのである。
言い換えれば、
夢は聞くものではないのである。
夢は匂うものではないのである。
夢は味わうものではないのである。
夢は触るものではないのである。
なぜならば、
聞く、匂う、味わう、触るのは全体感に他ならないからである。
一方、
見るだけが部分観に他ならないからである。
まさに、
「感」と「観」の違いに他ならない。
では、
なぜ、聴覚・嗅覚・味覚・触覚が全体感であるのに対して、視覚だけが部分観なのだろうか?
アインシュタインの特殊相対性理論の核である、光速度だけが一定(絶対)で、他のすべてのものは相対速度であることに起因する。
つまり、
聞くことでは錯覚を生まないのに、見ることで錯覚を生むからである。
なぜなら、
音速度は相対速度なのに、光速度は絶対速度であるからだ。
匂うことでは錯覚を生まないのに、見ることで錯覚を生むからである。
なぜなら、
臭速度は相対速度なのに、光速度は絶対速度であるからだ。
味わうことでは錯覚を生まないのに、見ることで錯覚を生むからである。
なぜなら、
味速度は相対速度なのに、光速度は絶対速度であるからだ。
触ることでは錯覚を生まないのに、見ることで錯覚を生むからである。
なぜなら、
触速度は相対速度なのに、光速度は絶対速度であるからだ。
従って、
絶対速度とは無限速度でなければならない。
ところが、
絶対速度であるはずの光速度が秒速30万キロという有限速度であると云う。
ここに問題の鍵がある。