第四十八章 テンシのはなし

テンシがこの山に住みだしたのはほんの10年前ぐらいからで、それまでは日本のあっちこっち転々としたらしい。
ところが、ひょんなことからこの山の頂上に居据わることになったのは、麓の駅で疲れた様子で座っていると、年老いた人間がテンシに話しかけてきて、この駅から歩いてすぐのところにある剣神社というところに行くと、おいしい水が湧いているから、それを飲むと疲れが取れると言われて行ってみたらしい。
たしかに山からの湧き水らしいが飲むと本当においしい。
それでがぶがぶ飲むと神社の巫女という女性が寄ってきて、お腹が空いているなら何か食べ物をあげましょう、と言われて家の中に案内されてご馳走になったらこれがまたおいしくて、あまりの感動でつい泣いてしまった。
するとその巫女さんが、かわいそうにと抱いてくれたのだ。そのときの感触は一生忘れることが出来ないとテンシはため息をつきながら話した。
そのとき地球上にいる生命体にはすべて男と女がいることを知って、なぜ自分たち「想い」の世界には男ばかりで女はいないのかと思ったのだそうです。
以前に父のヒカリから我々「想い」の世界は男だけで、別の宇宙には女だけの「想い」の世界があると聞いていたが、たしかに自分の地球には男と女が対でいる。
そして人間の罪の原点はこの男と女が一緒の世界にいることだと学んだことがあるから、それは良くないことの象徴だと思っていたのです。
ところがテンシの話だと、女の抱擁は殺伐とした男だけの世界では味わえない「想い」をリラックスさせてくれるものがあると言う。
それ以来、テンシはその女の抱擁の虜になって毎日その神社に通ったらしい。
ところが、その巫女さんが山の頂上近くにある大剣神社に引っ越すというので、自分もついて行っていいかと尋ねたら、許してくれたので一緒にこの山に登ってきたという。
そして最初はその神社にいたのだが、頂上の近くで湧き出る水はもっとおいしいと教えてもらって飲みに行った。その水はちいさな箱ぐらいの容器が埋めてあってその底から湧き出ているらしい。飲んでみてそのおいしさに驚いた。
テンシはこの女性の抱擁と水のおいしさで人間に対するイメージが完全に変ってしまったらしい。
そして、それ以来できるだけいろいろな人間と接するようにして、分かったことは、人間にも「想い」の変化した心が美しいものと醜いものがあるということで、いままで地球上の人間はみんな化け物と思っていたが、そうではなかったこと。そして美しい心を持った人間には我々「想い」にはない、潤いのような、香水のような、何ともいえない感触があって、それは体という肉体を持っているからだ。と分かったらしい。
この点は、わたしはまだ地球に降り立って500年経ったが経験したことのないものでした。
テンシは悪い人間に対する怒りは今でも変わりはないが、人間そのものには好感を持ったようで、ますます月に連れて帰りたいとわたしに懇願するのです。
思わぬ展開にわたしとイクサは戸惑うのでした。
ただわたしの地球の人間に対する憎悪の気持ちがテンシから消えていたことは喜ばしいことでした。