第二十五章 良心と道徳

わたしたち「想い」の世界では善悪の概念はないと申しあげました。しかし好き嫌いという感情はあると言いました。しかしその好き嫌いはそれぞれ個人と言いますか、個別の「想い」の問題であって、好き嫌いを外に出せば公正さという法則から逸脱して、「想い」といえども法則を逸脱したための宇宙からの反作用を受けるのです。
ところが地球上で今や我が天下と思い込んで、やりたい放題の人間は自分たちの都合で神の概念をつくり、しかもその神の対象を、本来地球を支配するわたしを無視して、父のヒカリにしてしまったことは前に申しあげた通りです。
そして神の対象を太陽であるヒカリにした宗教をつくりあげた。
もともとはわたしたち「想い」の計らいで宇宙の真理を忘れてしまった人間に思い出させるために三つの宗教を人間の世界に創ったと言いましたね。三つの宗教ではあったのですが、本来は2種類の宗教だったのです。
それは人間には、大きく分けて2種類の人間に分けられる。3%の宇宙の真理を理解できる可能性を持った人間と、97%の、宇宙の真理どころか無数の自分を持っている自分すら分かっていない人間とがいて、彼らに理解させる方法として2種類の宗教を創らせたのです。
当時ユーラシア大陸の東地区の方が、物質文明が進んでいたので、形而上学的といいますか、精神世界の退廃が顕著でしたので、それに対応した教えの宗教をインドの人間に興させたのです。
一方西地区は未開の地が多く、地球上の位置として非常に人間には住みづらい地域でしたので、まず生きることの術を教える宗教というか生存処方の教えを、最初に、当時地球のへそのひとつであったアフリカ大陸とユーラシア大陸が唯一つながっている地域に創らせたのです。そしてそれをベースにした二大宗教が出来たのです。
わたしたちが彼らに教えたかったのは良心というものでした。しかし彼らはそれを道徳とごちゃまぜにしてしまいました。しかも良心というものの本質を理解せずに自分たちの勝手な解釈をしたのです。
これらの宗教の開祖となった人間たちは完全とまではいかないまでも、そこそこ良心の本質を理解していましたが、やはりしょせん人間です。
まず道徳というものが普遍なものでないことを認識していなかった。それは当時では仕方なかったかも知れません。旅をするのも歩いての時代ですから、世界のいろいろの国を見たこともない。他の国では自分の国とまったく価値観が逆のことがいっぱいあり、それによって善悪が決められている。そうすると道徳のベースになっている善い行い、悪い行いの基準が国によって違う。それどころか個人個人によってみんな違う。しかも普通の人間つまり97%の人間にとっての悪は、自分の欲や興味に反するものすべてになっている。こういったレベルでの道徳観をベースにした宗教だから当然のことながらすべての人間に適用される普遍性がない。ここまではこの西ユーラシア地区で興した二人の開祖、特に愛を説いた開祖は分かっていた。善悪を問う道徳を教えたのではなく良心を教えたのだが、ところが、その開祖が死んだ後の弟子が分かっていなかった。そしてこの良心の教えを道徳の教えに歪曲してしまった。ここで開祖の教えと完全に違ったものになってしまったのです。
良心というものは人間によって変るものではなく、いつも自分がいろいろ感じること、つまり不快に感じることも、愉快に感じることも、すべて同時に感じることの出来る心を言うのです。分かりますか、この意味が。
不快なことなら嫌だ、すなわち悪だ。愉快なことなら好きだ、すなわち善だというのが道徳観の実体なのに対して、愉快なことはもちろん良いことだが、不快なことも良いことだ、それによって自分の心に、反省やら、人への思いやりやらを教えてくれている良いことだと、ばらばらでなくこの両方を同時にそう感じることが出来る心が良心の本質なのです。
たとえば、考えることすなわち思考と、意識との違いも道徳と良心の違いと同じで、ただ良心や道徳の場合は感情の世界であるのに対して、思考と意識の違いは知識の世界に対してのことなのです。
思考が不幸のはじまりとなるのは、思考は善悪の区分けを無理やりしようとするから、そこに幸・不幸の区分けが起こる、意識は善悪を両方飲み込んでしまうから区分けが出来なくすべてを飲み込んでしまうからです。
もう一つの宗教で、インドで生まれた開祖はそれをストレートに教えようとした、その分だけわたしたち「想い」に近かったのだと思います。
この間違った、強いものにとって都合の良いものが善であるという道徳観を宗教の中心ドグマにした弟子の中の、一人の教えが当時の西ユーラシア大陸を支配していたローマ帝国に浸透していったのです。
それは当然といえば当然で支配者であるローマ人にとっては、これほど都合のいい宗教はないのですから。自分たちにとって都合のいいことで、被支配人間にとっても都合のいいことは、人道主義にのっとった良心政治と自画自賛し、自分たちだけ都合がよくて、被支配人間に都合の悪いことは、彼らが非道徳的悪だと決めつけて、神の罰を受け、その神の替わりに、自分たちが罰を与えているのだと自己欺瞞を平然と出来る、これほど便利な宗教はない。だから自分たちが滅ぼした国の人間が開祖し、しかもその開祖した人間を十字架にかけた直接実行者であるローマ帝国が、彼の教えを国教とする。これほどの自己矛盾があるだろうか。よほど自分たちの罪に対する良心の呵責に耐えかねて懺悔のつもりでそうしたのか、それとも支配者にとってこれほど便利な教えの宗教はないと考えたからか、どちらかしかない。
しかし、ローマの大本山の寺院の名前はその弟子の名前になっているし、その開祖の姿はいつも十字架にかけられた見るも無残な姿をどこの寺院にも飾ってあり、信者はみんな十字架を首にかけている姿を全世界で見るにつけて、宗教の名前には十字架にかけられた人間の名前を命名しているが、実体は、ローマの大本山の寺院の、名前の宗教に変えたほうが教えにかなっているはずです。そのことに気づかないのが自分を知らない97%の人間なのです。
この宗教の信者に偽善者が多いと言われているが、多分自分では絶対にそう思っていないはずです。なぜならこういった無数の自分を持ってそれをひとつに無理やり束ねた人間には自己を客観視することは不可能なことであり、無理やりの主観的な人間にならざるを得なくなる。そういった無理やり主観者には間違ったというか、それぞれ違った善しかないのです。だから悪意に何かをする者はいないが、お互いの違った善のため、殺し合いをしている。それを見ていると、悲しい、哀れな、眠っている、無意識の偽善者と思うのです。しかも結果的には極悪非道を続けている。
これこそ、わたしが、どうこうしなくても自己矛盾と自己欺瞞の中で自らの地獄世界を創り、そこに自ら落ちていくだろうと思うと、かわいそうな気持ちになるのです。
やはり、大事なのはどんな人間にも合点がいく、今の人間が勝手に持っていると思うような良心ではない、普遍の良心を理解し、体得することが必要なのではないでしょうか。