第十三章 理解できる人間

話しは又5百年前にもどりますが、わたしが地球に降り立っても、毎日地球を一周してまわって、地球全体を見守ることは続けています。
その中で新しい発見をしました。それはわたしたち「想い」の世界に対する理解力がある人間がいたことです。
それが、おもしろいことに、人間の世界でわたしたちの世界のことをあたかも行ったことがあるように、分かった風に同じ愚かな、悩んでいる弱い人間に教えることを商売にしているずるい人間たちがいます。その弱い、愚かな人たちをたくさん集めては、神とは何かとか、神はこう言っておられるとか嘘八百をならべて、お金をまきあげている。
こういった人たちを彼らは宗教者とか、神の啓示を受けた選ばれたる人とか、中には昔からの伝統ある宗教を開いた教祖の生まれかわりだとか、少し知性のある人間だったら、それこそすぐにちょんばれの嘘をならべたて集めた信者の人たちからお金をまきあげている輩がこの世界にいっぱいおります。特にこの日本に最近多い。
ところが、こういった世界とまったく無縁の、人間同士、戦と言って殺し合いをしている戦士たちの中に、わたしたちの世界のことを理解している者たちが結構いるのには驚きました。
まず人間が根本的に間違った理解をしていることがあります。
人間を含めてすべての宇宙のものは進化し続けていると勘違いしているようです。
宇宙に存在するすべてのもの、つまり物質の総量は一定で増えることもないし、減ることもない。これが宇宙を貫く法則なのです。物質の一番小さな粒子から原子が出来、原子から分子が出来、分子から物質が出来る。たとえば水は水素という原子が2個と酸素という原子が1個の分子が結合して水が出来ている。
そしてこの物質の結合の仕方で、無機物質と有機物質が出来、有機物質がある条件下で有機生命体が出来、人間もそのひとつなのです。
ということは、宇宙に存在する微少な粒子は一定量なのだから、すべての物質も一定量だということです。
それでは人間の人口が増え続けているのはどうしてか?と聞かれるでしょう。
人間が増えると、それだけ減っているものがあるということなのです。それだけ人間の犠牲になっているものがいるということなのです。それを人間は理解していない。
他の有機生命体、生物たちは理解している。だから余計な殺戮をしない。自分たちの食料分だけをお互い与え合っている。
植物は土中から水と栄養分であるいろいろな物質すなわち分子化合物を奪っている。
その植物を草食動物が奪って生きている。その植物を肉食動物が奪って生きている。その肉食動物が排泄する物質を土が奪って生きている、しかもその動物が死ぬとその肉体の物質が分化して最後には原子から一番小さな粒子に戻る。
この循環をわたしが地球上であみだしたのです。自分で言うのも何ですが素晴らしいアイデアだと思いました。もちろんその基礎にあるのが宇宙に存在する物質は一定だという真理があったからです。
それを証明しているのが、すべてのものは無常だと一部の優れた人間が看破した真理です。無常という言葉が理解されにくいので普通の人間が解らないのです。
要するに、宇宙のすべてのものが相関関係を保ちながら常に運動しているということなのです。これでもまだ難しいですか。
平たく言えば、人間も他の生物も、独りでは生きていけない、お互い相互依存して生きている。これは分かりますね。相関関係とはそういう意味です。山でこもって独りで隠遁生活をしている人間でも植物や動物を食べて生きているということは独りでは存在出来ないのです。
それから常に運動しているという意味は、一定量の中で物質が変化し移動していないとすべてのものが存在出来ないからです。分かりますか。
土の中の水や栄養物質が植物の体内に移動する。植物が草食動物の中に移動する。
草食動物の体が肉食動物の腹の中に移動する。死んだ肉食動物の肉体が土に移動する。この循環はすべて運動、つまり動いているのです。静止していることは一瞬たりともないのです。
このことが絶対真理なのですが、いつのまにか、宇宙は膨張・増加発展し続けている、だから人間も発展進化し続けると錯覚している。すべての宗教の決定的間違いがここにあるから、あとは間違いだらけの連続です。
たとえば、知識というものも物質だということが理解できますか。
何か本を読んで知識を得たということは、その人間の頭脳の記憶装置に蓄えられたということです。その記憶装置の細胞が増えたということです。細胞は物質で出来ています。物質の量が一定なら、ある人間の細胞が増えると、どこかで必ず細胞を失っている人間がいるということです。
そこで大事なことは、知識はある量まで蓄積されないと、その効果を発揮出来ない、つまり行動という動きに移れないのです。行動があって初めてその行動した人間だけに進歩発展が実現されるのです。
だから知識という物質は分散されてはまったく無用の長物になる、言いかえれば人間全体が少しずつ知識を持っていても何の役にもたたない。知識は一部の使いこなす能力のある人間に集中されてはじめて効果を発揮する、そして役にたつのです。
それは現実に起こっているのです。だから人間一般の大衆は知識のない生き物なのです。それが唯一、一部の優れた人間が進歩・進化できる道なのです。人間すべてが進歩・進化することは不可能なことです。ほとんどの人間は一部の優れた人間の進化の裏で退化しているのです。だけど優れた人間の功績の恩恵を受けているからそれでいいのです。しかし退化している人間が大半だから、おかしなことをする、罪を犯す、お互い騙し合う、挙げ句の果ては殺し合うという現象が起こっているのです。
それなのに、すべてが日々進歩・進化していると教えている指導者はまったく何も解っていない低劣な、知識を蓄積できない、すなわち進歩出来ない人間たちです。その人間が上に立って指導・支配しているのが人間社会の悲劇を生んでいるのです。
この日本でも毎日、戦と言っては殺し合いをしている。
ヨーロッパの国など、それはもうひどいものですが、宗教者同士の殺し合いには道理もあったものではないのです。
ところが、戦いを職業としている人間の中に、わたしたちの世界の道理と似た考えを持った者たちがいるのです。
彼らは死を恐れていません。
日本では武士とかサムライとか言われているようです。いっぽう宗教者のことを僧侶とか言われていますが、わたしを神として理解してくれているのは明らかにサムライの方です。
インドではサムライのことをクシャトリアと言い、僧侶のことをバラモンとか言って、バラモンの方が身分が高いようですが、とんでもない間違いです。
わたしは僧侶や教祖やバラモンや預言者といった者たちなどまったく知りませんし相手にしたこともありません。
それなのに、よくわたしの言葉だとか言ってくれるものです。あきれてものも言えません。
それに比べてサムライたちは、決して神の声などと言わずに常に勇気を持って死と対面しています。
死と正面から対決する人間だけがわたしの「想い」を感じ取れるのです。
それは何故か分かりますか。
前にも申しあげたように、死という概念を人間に植えつけたのが他ならぬわたしだったからです。
だから、わたしは、いつも死というものに真剣に取り組んでいる人間には、ついすまないことをしたと思い、声をかけてしまうのです。それを彼らは聞きとるのです。それだけ死と対面している者はわたしの音で発信する「想い」を受信できるアンテナを持っているのでしょう。
わたしの気持ちは、暗闇の中で一点の灯りを見た思いでした。
何とか彼らに期待したいと思ったのです。
特に、この時、この日本に多いに期待できる人間がいました。わたしは彼を応援しようと心に決めました。