第十章 タイムスリップ

わたしと人間との根本的な違いは、彼らは三次元の肉体で四次元の世界に住んでいることです。
だから、四次元の要因である時間に閉じ込められているのです。
閉じ込めるという表現は少し分かりにくいでしょう、要するにコントロールされているというか、もっと分かりやすく言えば、時間というレールの上を汽車すなわち三次元の物体が走らされているのです。
汽車に時刻表があるように、スケジュール通りに走らされているのです。
したがって最初の生まれたときに始発駅から走りだし、死という終着駅まで予定通りに走るだけなのです。
わたしたち「想い」は、時空という四次元とはまったく別の世界に住んでいますから、四次元の時間に閉じ込められないのです。ああ、申し訳ありません。また閉じ込めると言ってしまいました。
四次元の時間にコントロールされないで生きてゆけるのです。
三次元の物体は、時間のレール上を戻ったり、早く行き過ぎたり出来ないのですが、わたしたちにとっては、時間はわたしたちの「想い」のレールにはなれないのです。
逆に、時間を入れた四次元の世界が、わたしたちの「想い」というレールの上を走らされているのです。
すこし難しいでしょうか。
わたしたち「想い」にとってのレールは「想い」のレベルによって変化していきますが、それは前にも言いましたように「想い」の移動するスピードによって変化するということですが、基本的には「想い」の純粋度がスピードと相対関係にあるのです。
「想い」の純粋度が高ければ高い程、その「想い」の移動速度は速くなる。
わたしの「想い」の移動速度は音の2倍程度なのに、父のヒカリは光の10倍、祖父のギンガは光の6兆倍の速度、曽祖父のイシキは17兆倍といった具合になっています。
そうすると、「想い」の純粋度というのは一体何なのか。
分かりやすく言えば 真直度ということです。
汽車が走るレールもまっすぐなレールもあれば、曲がったレールもある。ある地点から目標の地点まで行くのに、まっすぐなレールを敷くことが出来たら一番早く目標地点に行ける。だが三次元の立体世界では、いろいろな物体が混在しているから、よけて通らなければならない。だからレールは曲げなくてはならなくなる。それだけレールの距離が伸びるから時間がかかる。
「想い」も曲がってばかりいるとなかなかゴールに着かない。
わたしの「想い」などは、さしずめ曲がりくねった「想い」なものですから、人間という知恵ある生物に振りまわされるのです。
しかし、「想い」というものは時間にコントロールされないから、わたしのような曲がった「想い」でも、時間の上を自由に移動することが出来るのです。
人間のような三次元の物体は時間のレールを一方通行しか出来ません。すなわち過去から未来への一方通行ですが、わたしたち「想い」は時間のレールの上を自由自在に移動出来るのです。未来から過去にも行けるのです。
ただ「想い」の純粋度すなわち真直度によって移動の速さが違う、たとえば父のヒカリの「想い」はわたしの「想い」の540万倍の移動速度を持っているのです。
わたしの「想い」の移動速度は音の約2倍の時速2千キロメートル、一方父のヒカリの「想い」の移動速度は光の10倍の時速108億キロメートルで移動出来るのです。
これは、「想い」がいかにまっすぐかということに関係しているのです。
もちろん、三次元の物体にも「想い」があります。彼らの「想い」の純粋度は、もう本当にいやになるほど低く、曲がって曲がってほとんどまっすぐなところがありません。
だから、時間にコントロールされているのです。
その点、自慢じゃないですが、わたしは時間にコントロールされていません。
ここが、いくら怪物といっても人間との違いです。
わたしは、自由自在に時間の流れの中で往ったり復ったり出来るのです。
いわゆるタイムスリップ出来るのです。
この有利さを使って、これから人間の根性を叩き直すつもりです。