神の自叙伝

わたしは 50億年前に 地球とともに 神として 生まれた

その前 溯ること100億年前に

宇宙とともに 生まれたものがあったらしいが

わたしは そのことは 何も知らない

わたしは この地球上に すべての 物の支配者として 生まれた

最初の物は 水だった

そして 水が 無い物ねだりをしたので

つい 神心が出て 水の遊び相手を創った

それが 土だった これが わたしの最初の間違いだった

土は 水にもて遊ばれて とうとう 逃げてしまった

そして 水と 一線を画した

それが 陸の誕生だった

そして 水は対抗して 海を創った

これが ボタンの かけ間違いの はじまりだった

この海と陸が わたしの中にも生まれた

そして わたしの中に 自由という悪魔が 生まれたようだ

それ以来 わたしは 悪魔と同居している

わたしが 何かしようとすると 悪魔が言う

自分にも 何かさせて欲しいと

わたしは また 神心を出して それを許す

そして とうとう 悪魔に とんでもない物を 創らした

それが 人間という 生き物だ

わたしは しまった! と思ったが 手遅れだった

だが 悪魔の創った人間は まだ悪魔の心の中だけにいた

わたしは なんとかしなければ! と思って必死に考えた

そして 海の中に 最初の 実体のある 生き物を 創った

だが 陸も それを 欲しがった

つい また神心が出て 陸にも生き物を与えた

それが また わたしの間違いだった

陸の生き物の中に 悪魔が入りこんだ

悪魔の狙いは 実体のある人間を創りだすことだった

陸の生き物の中に 想像だけだった人間が入りこんだ

あとは 悪魔の思う壷だった

悪魔が生んだ人間が やりたい放題

わたしは 後悔して 反省しても 間違いの繰り返し

それ以来 わたしは 何とかしなければ! の繰り返しだ

いつに なったら 悪魔と袂を分かつ時が来るのだろう

多分 わたしが 死なない限り 悪魔は 離れないだろう

だけど わたしは 死ぬ勇気が出せない

そして つい 悪魔に迎合する

人間は 悪魔を神と信じている

わたしは 思う

何とかしなければ!

それが わたしの 終わりのない一生だ



はじめに

ニーチェは「神は死んだ」と言って発狂しました。なぜ彼はそう思ったのでしょうか。
神という存在自体が矛盾そのものだと思ったのではないかと私は思うのです。
人は生きることで悩み、苦しみ、そして生あるものには必ず死がやってくるという絶対なる事実に怯える。
逆に、幸せとか、喜びとかに絶対性があるのかと言えば、それは残念ながらノーと言わざるを得ません。
怯える死は絶対性がある。それなら生きることは果たして幸せなのか。
人生を楽しみなさい。とよく言われますが死という絶対的なものに怯える限り、人生を楽しむなんて不可能なことではないでしょうか。
それなのに、人類の歴史で人は変われど、処は変われど、時代は変われど、必ず登場するのが神の概念であります。
未だに人類の初期の生き方をしているアフリカやアマゾンの奥地にいる人たちにも神の概念はあります。
文明の先端をきっている欧米諸国や日本でも神の概念は厳然とあります。
それでは、神の概念は一体どういうところから生まれて来たのでしょうか。
それは、現象は様々であっても、人間が生きていく上で形而下的問題であっても、形而上的問題であっても、要するに苦痛、悩み、苦しみから解放されたいがために神の概念を創ったのではないでしょうか。
神なら救ってくれる。と思ったからでしょう。それなのに神の概念が生まれた太古の時代から未だに問題は解決されていない。
何かが間違っていると思わないのでしょうか。こんなにずっと神を信じ、神に頼ってきた人類なのに、そのために何千、何万、何十万の宗教が生まれてきたのに未だに人間の苦悩はなくなっていない。かえって増えている。それなのに神にたいする概念は変わらない。
わたしは、神の概念を見直すべき、ときが今こそ来たと思うのです。
神の存在の有無を問うのではない。無神論を提唱しているのではない。
神の在り方を考え直すべきだと言っているのです。
今までの神の在り方を定義してきたのは、我々人間であったのですから、我々がその定義を変えることは出来るはずです。
中には、「とんでもないことを言う奴だ、神は人間ではない、遥かに大きい万能の存在であるのに、その神の概念を変えろとは。自分は神の啓示を受けたから、大いなる神の存在を知っている」とおっしゃる方たちがいるでしょう。宗教団体の教祖様たちはみんな口を揃えてそう言われるでしょう。
そういう方々に、敢えて訊ねたい。
ならば、あなたの信者の方々はみんな苦痛、悩み、苦しみはまったくないのですか。苦痛、悩み、苦しみがあるから、あなたのところへ来たのではないのですか。
それに対して、あなたは全部解消してあげることが出来たのですか。
何故、教団の中でもめごと、不満が絶えないのですか。何故、教祖様の後継者問題で争いが起きるのですか。一体あなた方の神は何をしているのですか。
この本質を、神を信じるあらゆる宗教団体の信者の方々によく考えて頂きたい。
わたしはこう思います。「神は決して万能ではない。神にも悩み、迷いがある。だけど神はわたしたち人間を含めて森羅万象すべてのものの為に一生懸命考えていてくださる有り難い存在である」
だから、神を困らせてはいけない。ときには我々人間が神を助けてあげなければならない。
どうやら、神というのはときには悪魔にもなる、地獄に我々を落とす冷酷非情なものである面を持っているものだと思えてなりません。
そうなると、今までの宗教の概念を根底から覆さなければなりません。
神はひょっとして、あなたにとっては非常に都合の悪い存在になるかもしれません。
そのとき、はじめて根本はあなた自身にあるということが解ってくるのではないでしょうか。
それが、悟りというものかもしれません。悟りとは何かを達成するのではなく、簡単な本質をただ知ることだとなると、誰でもすぐ悟ることが出来る。神の概念がその邪魔をしてきたのではないかと思うのです。
したがって、神の立場になって、神の本音を語ってみたいと思いました。
ただ誤解されては困るのですが、こういうわたしも、こういった考えに至ったのはほんの最近のことで、宇宙の中に存在する最も微少な粒子であるニュートリノに質量があるということが解明され、今まで宇宙はビッグバン以後膨張し続けてきたという説が絶対ではなくなりそうで、収縮もあり得ることが解ってきたという事実からです。
そうすると、上がり下がり、喜び哀しみ、幸・不幸、健康病気、……といった現象と符合する。
神の概念とは符合しなかったことが、やっと符合できたと思ったとき、神は「やっと、自分のことを解ってくれた、よかった」と言っておられるような気持ちになりました。
だから、僭越だとは思いましたが、表現してみようと思ったのであって、決してわたしが悟ったなんて思ったからではありません。

平成12年10月21日  新 田  論





反省編  改正編  決断編  実行編  終幕編

神の自叙伝 反省編

第一章 わたしの幼少時代 第二十一章 凡人の恐ろしさ 第四十一章 殺戮のクライマックス(1)
第二章 宵の明星・明けの明星 クウとカミ 第二十二章 魔がさす時代 第四十二章 殺戮のクライマックス(2)
第三章 やっかいな相手・地球人 第二十三章 遠くの泣き声 第四十三章 殺戮のクライマックス(3)
第四章 地球への旅立ち 第二十四章 泣き声の実体 第四十四章 殺戮のクライマックス(4)
第五章 地球のへそ 第二十五章 良心と道徳 第四十五章 殺戮のクライマックス(5)
第六章 地球上での神 第二十六章 奴隷の城・エルミナ 第四十六章 悪の根本原因
第七章 混乱の世界 第二十七章 非道の原因 第四十七章 テンシを探して
第八章 「想い」のレベル 第二十八章 宇宙観と宗教観 第四十八章 テンシのはなし
第九章 悪と善 第二十九章 親子喧嘩 第四十九章 人間の良し悪し
第十章 タイムスリップ 第三十章 神の功罪 第五十章 反省の総括
第十一章 現代へタイムスリップ 第三十一章 原罪
第十二章 テンシの恐ろしさ 第三十二章 懲りない人間
第十三章 理解できる人間 第三十三章 大人の美しさ
第十四章 神は あっちこっち 第三十四章 無数の星
第十五章 最初のお仕置き 第三十五章 欲望の渦
第十六章 人間の種類 第三十六章 テンシ降臨
第十七章 痛快な独裁者 第三十七章 現代犯罪のルーツ
第十八章 宇宙の法則 第三十八章 テンシの罠
第十九章 人種と民族 第三十九章 地球人類と月人間
第二十章 海と陸の対立 第四十章 殺戮のクライマックス


(反省編)終わりにあたって

当初 わたしがこの「神の自叙伝」を書くきっかけになったのは「はじめに」で述べましたように宇宙の実体について科学の発達で未知だったものがどんどん解明されていくと、それにともなって人間の精神世界の概念まで変わらざるを得なくなってきたと感じたからです。
精神世界はこれまで、唯物的考えであっても、唯心的考えであっても、人間は考えることが出来るものであるということにおいては意見の違いはなかったはずであります。
その考えることが、肉体の脳で考えるのか、肉体とは別のものがあってそれが心であるのかの違いだったはずであります。
しかし、物質の微少な世界でニュートリノのように人間の目ではとうてい見ることが出来ない素粒子にも、人間の体と同じように質量があることが解明された現在、目にはっきり見えるもの以外は存在しないという唯物論は、その考えが正しいかどうかではなく、少なくとも今までの考えを見直す必要があることは否定できないでしょう。
同じように、目に見えない世界が存在するという唯心論も、目に見えないものも物質であるのだから、やはり今までの考えを見直す必要があることは否定できないでしょう。
結局、唯物論も唯心論も同じであって観点の違いだけだ。というのがわたしの意見です。
見ている自分の場所が違うだけで、見ているものは同じものだということです。
それなら、その考えは各個人の主観であって客観的事実ではないということであります。
ここのところが過去何千年、何万年前に人間が文明をつくった最初にボタンのかけ間違いをした重大なミスであったのではないかと思うのであります。
つまり、人間の思ったり、考えたりすることには、客観性はなく、すべてその人間だけの主観であり、従ってどれが正しいとか間違っているとかの問題ではなく、同じ考えか、違った考えかの問題であり、究極的にはすべて違った考えがあるという事実だけであります。
そのそれぞれすべて違った考えを、ある考えに無理やり客観性を与えて、その考えに収斂させてきたのが宗教であり、神であったように思えてなりません。
だから、当然いろいろな客観的考えがどんどん出てくるといった矛盾が生じてくるのです。
「いろいろな客観的考え」なんて有り得る訳がない。
客観性はただ一つしかないのです。
だから、いろいろな客観的考えが唯一性の争奪戦をやるのです。自分以外の客観的考えは全部間違っているから排斥せざるを得ないのです。
すべての宗教が抱える最大の問題であります。
本当の宗教とは、本当の神とは、各個人対自然、各個人対宇宙、各個人対絶対との問題であり、各団体やら、各人種やら、各民族やら、各国家との問題ではないのです。
自分という主観と絶対という客観との相対的関係である。これが結論であります。
わたしの「神の自叙伝」はわたしの主観による絶対という客観についての、わたしの神の「想い」の綴りであります。
みなさんにも、それぞれの主観による神の概念を持って頂きたいという思いからこの「神の自叙伝」というサンプルを創ってみたのです。
神は他人から押しつけられるものではありません。自分が自由に創造すればいいのです。
今回の「反省編」は最初の試みでありました。その途中で分かったことは、人が自分の日記を書くように、自分が対峠する神の日記が、わたしの場合この「神の自叙伝」であり、わたしが生あるかぎり自分の日記と同じように、自分の神の日記を書き綴るべきだと。
「反省編」のあと「改正編」「決断編」「実行編」そしてわたしが死に直面したと同時にわたしの神も直面する死についての「終幕編」と綴っていきたいと思っています。
読者のみなさんも、自分の日記と同時に、自分の神の日記を綴ってみられたらいかがでしょうか。
そのときの参考にこの本がなれば、この上ない悦びであります。

平成12年11月23日 新 田 論