第四十一章  本物のカシュルート

昼の12時に、羊を生贄にしたカシュルートの儀式を終えたラビたちは、12時間後の夜中午前0時から、彼らにとっては鬼畜(ゴイム)である異邦人を生贄にする儀式で過ぎ越しの祭りは終了する。
三千五百年前に、ヤーヴェの神からエジプトで奴隷になっている同朋のヘブライ人を救い出すように命じられたモーゼが、時のエジプト国王ラムセス二世に突きつけた呪いが、ヘブライ人を奴隷解放しないとエジプト人家庭の嫡子が皆死ぬというものだった。
その呪いから逃れるためには羊の血を家の前に塗っておくと、呪いの神が過ぎ去って行く。
それが過ぎ越しの祭りの原点である。
ところが、その慣習がその後大きく歪められ、紀元前5百年頃にバビロニアのタルムード信仰が混入して、現代のユダヤ教に変節してしまった。
歪んだ選民思想が、生贄を羊から異邦人のゴイムに変えてしまった。
ドクターからカシュルートの原点を教えてもらったベンジャミンは、ドクターに尋ねた。
「だけど、それはヘブライ人の歴史でしょう?我々アシュケナージはヘブライ人じゃありませんぜ。トルコ系アルメニア人だと親父は言ってましたよ。アメリカにいるユダヤ人はほとんどがアシュケナージでしょう。そんなカシュルートの儀式なんて関係ないんじゃないですかい?」
「今、このアメリカという国は重大な岐路に立たされているんだ。ここで舵取りを間違えると大変なことになり、延いては世界の悲劇を生むことにもなる。それが今日のカシュルートにかかっている。ベンジャミン、君は大変な使命を負わされたんだよ」
楽天家の「合点」運転手も、ドクターの話を聞いて、額に汗を掻いていた。
「同朋の旦那。あっしは何をすればいいのかきっちりと指示してくださいよ」
異邦人であるボブには、まったく理解できない世界だった。
「カシュルートの儀式をとり行うラビが祭壇にあがる前に、生贄にされるキムが裸の上に白い透き通った衣類を着せられ、祭壇の前に置かれた台に載せられ、手足を縛られる。そしてラビがタルムードを読み出すと、七人の覆面を被った男たちが、ナイフを持ち現れる。彼らは、それぞれのナイフの先を、メノラーという燭台の七本の蝋燭の火に当てる。そして七本のナイフを合わせて、イェーサカ・ハブ・アノーラと大きく叫ぶと、シナゴーグにいる全員が、唱和するんだ。そして・・・・・・・・」
顔面蒼白になってきたベンジャミンは、「もういいですよ、旦那。あっしは、そこで何をすればいいんで?」
「彼らが、唱和したと同時に、君は大きな声で叫ぶんだ。『火事だ!』とね。それだけでいいよ」
ベンジャミンは、ほっとした様子で、「それだけで、いいんですね?」
と何度もドクターに確認して、そして「へい、合点で」と十八番が出た。
ボブとドクターが、ヤコブ・シナゴーグの裏口で待機してたのは、12時前だった。
ベンジャミンは、表から堂々とシナゴーグに入って行った。
一千人ぐらいの人間が入ることのできる、かなり大きなシナゴーグだ。
ユダヤ教のシナゴーグと言えば、ニューヨークにあるシナゴーグが世界最大の規模を誇り五千人収容できるらしい。
ヨーロッパでもそれに匹敵するシナゴーグが各国にある。
その中でも有名なのが、ブダペストとベルリンのシナゴーグで、三千人を収容でき、ブダペストのナギーシナゴーグは世界で二番目に大きく、1859年に建てられた。またベルリンには六つのシナゴーグがあり、ノイエ・シナゴーグがその中心で、1866年に完成した時には、時の宰相ビスマルクも式典に参列している。
「このヤコブ・シナゴーグもなかなか立派なもんだ。だから本物のカシュルートの儀式をやれるんだ。ベルリンのノイエ・シナゴーグにキエフから良く父親に連れられて行ったが、ビスマルクが式典に参列したノイエ・シナゴーグでドイツ人を生贄にしたカシュルートの秘儀をやっていたんだから、ユダヤ人もポグロムという虐殺の犠牲者と騒ぐけど、結局、人間なんて皆同じようなことをしているんだ」
ボブはドクターの冷静な考えに感動した。
一般的には、民族間の軋轢や相克は、お互いに熱くなってしまって誤解による憎しみが悲劇を生む。
暗い中で話しをしていて、時間を忘れた二人は、中が騒々しくなったのに気づいて、「さあ、合点が騒ぎ出したんだ!」
二人で顔を合わせた途端に、猛烈な勢いで爆風が、裏口のドアーを突き破った。
二人は思い切り路上に飛ばされた。
本当の火事が起こったのだ。
吹き飛ばされた裏口に入って行った二人は、ベンジャミンとキムを探した。
「キム!」
「ベンジャミン!」
と叫ぶのだが返事がない。
ボブが咄嗟に、「合点の旦那!」
と大きく叫ぶと、遠くから「へい、合点で」と聞こえる。
声のする方向へ二人が駆けつけると、ベンジャミンがキムを抱きかかえて立っていた。
「本当に、火をつけたのか?」
ドクターが怖い顔をしてベンジャミンに聞くと、
「とんでもない!あっしは、後ろから炎が襲ってくるのを知って、本気で"火事だ!"と叫んだだけで、へい」
「とにかく、ここから抜け出すんだ!」
四人が火事で半ば崩れ落ちようとしているシナゴーグを見ながら立っている側を、消防車がサイレンを鳴らして走っていった。