第三章  ジョン軍曹の凱旋

酔っ払ったままサリナスの駅から北へ120マイルのサンフランシスコに着いたジョンは、自分が何をしているのか、やっと冷静に考えられるようになった。
列車からプラットホームに降りたジョンを待ち受けていたのは、プラットホームに机を並べて入隊手続きの受け付けをしていた軍の将校たちだった。
「名前・年齢と出身地は?」と将校に聞かれたジョンに、猛烈な後悔の念が襲って来た。
「早く、返事しなさい!」と言われたジョンは、「ジョン・ベネディクト、18才。出身地はサリナス、カリフォルニアです」と神妙に答えた。
「志願したのですか?」
ジョンはサリナスの駅で自暴自棄になって父親のジェイコブが委員長をやっている徴兵委員会で、海軍に志願したことを思い出した。
あの忌まわしい記憶が、再び蘇ってきた。
モントレーの郊外にある酒場に連れて行かれ、
「ジョン、この人が僕たちの母親だ」とボブに言われ、びっくりして部屋を出ようとしたら、ボブに突き戻され、部屋のソファーに母親と抱き合うように倒れたとき、彼女の厚化粧の顔から強烈な匂いがした。
「嘘だ!父さんから聞いていた母さんは、こんな女じゃない!」と叫んで部屋を飛び出した。
しかし、ジョンは心の中では認めていた。やはり母子の繋がりは肉体の繋がりだけに、理屈抜きで、母親だと判ったのだ。
それだけに、余計ショックだったジョンは、酒場のカウンターでウィスキーをがぶ飲みした。
初めての酒だったから、それからあとのことはまったく記憶がないまま、サリナスに戻って志願し、駅でサンフランシスコ行きの汽車が来るまで、暴れていたのだ。
ジョンとボブはジェイコブとエバが結婚してすぐに双子の兄弟として産まれた。
ジェイコブは敬虔なクリスチャンだったが、嫉妬心が強く、エバを他人の目にさらすことを極端に嫌った。
「信じなさい。信じれば救われる」と教会の牧師がイエスの言葉として説教をしてくれるが、頭ではそう思っても、体はその通りに納得してくれない。
エバが、ちょっと買い物に出かけると言うだけで、猜疑心がもたげてくる。そうなると牧師の言葉など、何の役にも立たない。
「買い物に出かけるだけで、何故そんな化粧をするのか?みんなから綺麗だと思われたいからだろう。それは神の戒めを犯した行為だ」とジェイコブは屁理屈を言って、エバを抑えつけていた。
エバは漁業の町モントレー出身、荒くれ漁師をいつも見てきたから、男の扱いには慣れていた。
それが、ジェイコブの猜疑心を余計増幅させていた。
ジェイコブの心の裏に潜む猜疑心が息子のジョンにも強く引き継がれていた。
遊園地でキムがボブと一緒にいたことを知ったジョンの猜疑心が一気に噴出し、ボブに対する憎悪の気持ちが、兄弟喧嘩の原因になってしまったのだ。
ボブはエバの性格を引き継いでいた所為か、クリスチャンの建前だけの善人ぶる態度が我慢ならなかった。それだけに敢えて偽悪ぶって生きてきたが、本音のところでは、ジェイコブやジョンよりも、人を信じる心がずっとあった。
最初は、ボブの悪ぶる態度に怖れを持っていたキムだったが、ジョンがいつも話すイエスの教えを俄に信じることが出来ない自分自身に、ボブと同じ体質を感じていた。
しかし、キムは自分を決して悪い女だとは思っていなかった。
『信仰とは、一体何のためにあるのだろう。人間の持つ魔性を抑圧するためにあるなら、いつか必ず爆発する時が来るはず。ジョンの行為は、たまたま死んだと思っていた母親が生きていて、酒場の主人であることを知ったショックで、今まで抑圧してきたものが一気に爆発しただけで、結局いつかは同じようなことが起こったはずだわ』と思った時、信仰に対する疑問が大きく湧いてきた。
「ジョン・ベネディクト。君を陸軍軍曹としてヨーロッパ戦線へ派遣する」
軍将校から通達を言い渡されたジョンは抗議した。
「ちょっと待って下さい。僕は海軍に志願したのです。陸軍に志願した憶えはありません」
「どこに配属されるのかは、こちらで決める。今、ヨーロッパ戦線では連合運が苦戦している。アメリカが参戦したのも、このままでは連合軍が敗退する気配が濃厚になってきたからだ。今は、一人でも、国の為に命を捧げる兵士が多く要るんだ」
有無も言わさない回答に、ジョンは体を震わしながら勇気を奮って言った。
「それなら、志願は撤回します」
「もう手続きは終わった。今更撤回は出来ない」
ジョンは、またもやショックを受けた。その時、母親の秘密を知ったショックなど完全に消え失せていた自分を見出す余裕はなかった。
アメリカが参戦した主要な目的は、前線での戦いに直接武力行使することではなかった。
戦争が始まってから既に4年近く経って、敵味方ともに疲弊している中、アメリカ一国だけが利益をあげて得た強力な経済力をバックにした兵站役であった。
アメリカからの豊富な軍需品の提供が、この大戦の勝敗を決した。アメリカが参戦して1年半で第一次世界大戦は終結したのである。
陸軍に強制的に入れられたジョンは、前線で殺し合いをすることを覚悟していた。
しかし、アメリカが参戦するまで、飽くまで中立を守る姿勢を通していたことが、ジョンの戦争反対の気持ちを蘇らせた。
陸軍軍曹であったジョンは、自ら兵站部を志望し、ヨーロッパ戦線への軍需品の供給作戦に才能を発揮した。
「いくら強い兵隊でも、空腹では戦えません。また武器や弾薬が豊富でなければ勝てません。アメリカ軍は、兵站役に徹するべきです」
この提案が、ふとしたことから、ウィルソン・アメリカ大統領の耳に入った。
中立主義を維持しつつ連合軍に参戦するポーズを取りながら、自分の提案した休戦14ヶ条を敵味方両方に受け入れさせ、まんまとアメリカを終戦のリード役にならしめた。
世界のアメリカの誕生である。
ジョンの提案が、このベースにあったことは言うまでもない。
戦闘することなく、ジョンは十字勲章を得て英雄になった。
ウィルソン大統領は、ジョンを参謀本部に入るよう薦めたが、ジョンは固辞し、1年半で除隊を許された。
英雄の凱旋で、サリナスの町は盛り上った。
「英雄ジョン、万歳!」の声が、通りの両側から聞こえて来る。
しかし、ジョンの目はその観衆の中にいるであろうボブとキムを探していた。
しかし、そこには彼等の姿はなかった。
ジョンの表情が笑いから、失望のそれに変わっていったが、観衆は、そんなジョンの気持ちを察するべくもなかった。
その中で、観衆の列から遠く離れたところに帽子を被った、一人の女性の姿をジョンは見つけた。
エバだった。
無表情にジョンの姿を見ているエバの両側にボブとキムが立っていた。
あの時のことが、ジョンの脳裏をよぎった。
父・ジェイコブの誕生日に、ボブは大豆投機で儲けた大金をプレゼントした。
ジェイコブは、「戦争を利用して儲けた金など受け取れない」と言って、ボブのプレゼントを拒否した。
大木にもたれかかって、傷つき泣いているボブを慰めているキムの姿だった。
ジョンは、そのとき理解(わかっ)た。
『キムが本当に愛しているのは自分ではなく、ボブだ』
そして、ボブに連れられて、モントレーの母の酒場に行った時の悪夢が蘇った。
ジョンの心に、また憎しみの気持ちが噴出した。
自分達を見ているジョンの視線で、ボブとキムはジョンの心情を悟った。
英雄としてサリナスに凱旋したジョンなのに、その表情は、あの夜、酔っ払ってサリナスの駅で暴れ、汽車の窓ガラスを頭で割りながら、父ジェイコブに笑っていたときと、まったく同じだった。
一方で、英雄を称えるサリナスの人々に対する彼の微笑は、戦争に真剣に反対していた頃の人格者ジョンのマスクであった。
『何も変わっていない!』と悟ったとき、キムはボブの手を強く握りしめた。
びっくりしたボブはキムの顔を見た。
不安でいっぱいのキムの表情を見たボブは、強く握り返しながら言った。
「大丈夫。ジョンは分かってくれるさ!」
その言葉を聞いたキムは、あの観覧車で話したことを思い出した。
「ジョンは、あまりにも心が綺麗すぎるわ。わたしは、そんな心の綺麗な人間ではない。ボブ、わたしはあなたと同じよ」
そう言った言葉がまったく正反対であることが、今やっと分かったのだ。
『本当はボブの心の方が、純粋で綺麗だったのだわ。わたしとジョンが偽善のマスクを被って青年時代を生きてきたのだ。少年や青年が偽善ぶるほど醜いものはない。大人のように、生き抜く中で汚れてしまった心が生む偽善と違って、世間の汚れを被っていない青年の偽善は先天的なものだから、もっと醜い』
キムは思うと、猛烈な自己嫌悪に陥った。
そして、ジョンに対する罪意識と共に嫌悪感を持った。
青年時代の男女の恋は、壊れやすい。
嫌悪感がすぐに露呈するからで、その原因が、実は自分にあるのであって、相手は自分の醜い心を映している鏡であることを知らない。
自分で自分を好きになり、自分の醜さを鏡に映して、嫌悪感を抱くのが青年の最大の無知からくる罪である。
人間というものは、知識から得て学ぶことと、体験から得て学ぶことを交互に繰り返すことが大事なのだが、なかなか大人になってもそれが分からない者が多い。
戦争という愚かな行為は、まさに知識と体験のバランスが崩れた人間が引き起こす最大の罪である。
戦争をあれだけ反対したジョンが十字勲章を胸にかけて、誇らしい態度でいる。
だがジョン自身は、ただ前線に行くのが怖くて提案したことが大統領の目に留まっただけのことで、英雄どころか、臆病と偽善から起きたことだということを分かっている。
その内面の葛藤が、『ジョンは何も変わっていない!』とキムに感じさせた顔の表情に出ていたのだ。
ジョンが帰郷するまでは、彼に対する想いは、キムにはまだ残っていた。
悪いことをしたという罪意識から来ていたのかもしれない。
恋人同士であったという記憶の余韻であったかもしれない。
しかし、凱旋してきたジョンの表情と態度で、キムのそのような気持ちがすべて吹き飛んでしまった。
「女というものは、心の切り替えが早い生き物よ!」
エバから言われたキムは、心底納得した。
だがジョンは分かっていなかった。
以前と同じ態度で、ボブとキムの前に現れたのである。
キムは、心に決めていた。
『ジョンが何を言おうと、わたしはボブのそばを離れないわ』
パレードから離れたボブとキムは家に戻った。
パレードはサリナスの市庁に向かっており、サリナス市長から出迎えられたあと、いろいろな催しがあることになっていた。
二人は家でジョンを待つことにした。
ジェイコブが生きていたときとまったく変わらない居間のソファーに座った二人は、しばらく黙っていた。
「ボブ、わたしの心はもう決まっているわ。たとえ、ジョンから何を言われても、わたしはあなたのそばを離れない」
それを聞いていたボブは笑いながら言った。
「キム、ジョンはこの町の英雄だ。それは僕にとっても誇りだ。今晩はジョンを歓迎してやろうよ」
双子だから、普通の兄弟以上に心のうごめきが分かるのか、ジョンの気持ちを大切にしてあげようとするボブの気持ちだった。
「もちろん、わたしもそのつもりよ。だけど、パレードの時の彼の表情は、わたしたちに対する憎しみの気持ちでいっぱいだったわ。わたしたちの歓迎を素直に喜んでくれるとは思えないわ」
「それは、直接会って、話してみないと分からないよ、キム」
ボブに言われて、「そうかもしれない。自分の思い過ごしかもしれないわね」とキムの表情も少し、明るくなった。
「とにかく、今晩の用意をしよう。あの時と同じように」
ボブは思いだしながらキムに言った。
父・ジェイコブの誕生日パーティーの飾りつけを二人でやったことがある。考えてみれば、その誕生日が、すべてのきっかけだった。
レタスの商売に失敗し一文無しになったジェイコブを助けるため、ボブはモントレーの淫売宿の主人であったエバから5千ドルのお金を借り、大豆の投機をして大儲けした。
儲けたお金をジェイコブに誕生プレゼントしようと思ったからだ。それでジェイコブの心を買えると思った訳ではなかったが、普通の人間なら困った事情から抜けられるだけで喜ぶのが当たり前だとボブは思っていた。
だが、敬虔なクリスチャンのジェイコブの反応は違っていた。
「いくらお金は欲しくても、人の道に外れた方法で得た金は受け取れない!」と言って、ボブのプレゼントを拒否したのだ。
人道的観点から言えば、尤もなことだとも言える。
だが、ボブは思った。
『それなら、お父さんは何の目的でレタスの商売をしていたんだ。結局は金儲けのためではないか。お金儲けの方法に良し悪しなんてない』
まだ、十代のボブにとって、商売の方法にも、世の中のためになる商売と、そうでない商売とがあることなど分からなかった。
母のエバがやっている酒場や淫売宿が、世間を憚る商売だとも思っていなかった。
だからエバを疎ましく思うこともなかった。ただ子供を捨てた母として、またジェイコブに銃口を向けた女に対する軽蔑の気持ちは持っていた。
しかし、母に対する想いの方が強く、頭では拒否しながらも、体は母に対する想いで会いに行ってしまったのだった。
エバはそんなボブにジェイコブの偽善性とはまったく違った面を見ていた。
そして偽悪ぶる面を、自分とラップさせていた。
ジェイコブとエバの夫婦関係が壊れたのも、あまりにも偽善と偽悪との両極端にいたからで、それが双子の兄弟にはっきりと表れていた。
準備を終えた二人は、ソファーに座って黙ってジョンが帰ってくるのを待っていた。
「キム、ジョンがまだ君のことを想っていたら、ジョンのそばにいてやって欲しい」
急に言ったボブの言葉に、キムは驚きながらも、ボブの本当の優しさを知って、何とも言えない複雑な気持ちになるのだった。