第三十九章 覚醒の人生 & 眠りの人生

私たち人間の一生は、ボタンのかけ違いからはじまっている。
まさに、
ボタンのかけ違いこそ、エデンの園から追放された事件であったわけです。
言い換えれば、
善悪の判断をする禁断の実を食べたことこそ、ボタンのかけ違いに他ならなかったわけです。
従って、
アダムとイブという人類の祖先以来、私たち人間の一生は、ボタンのかけ違いからはじまっているのではなかったのです。
従って、
私たちひとり一人の人間が、子供から大人に成長してゆく中で、ボタンのかけ違いがはじまったのです。
そして、
私たちひとり一人の人間が、子供から大人に成長してゆく中で、ボタンのかけ違いをせずに大人になった人間は、自覚の人生を送ることができるのです。
一方、
私たちひとり一人の人間が、子供から大人に成長してゆく中で、ボタンのかけ違いをして大人になった人間は、錯覚の人生を送る羽目に陥るのです。
まさに、
自覚の人生か。
錯覚の人生か。
誕生(始点)→生(円周)→死(終点)という円回帰運動の中で、生(円周)、すなわち、生きるとは鑑賞の人生に他ならないのです。
まさに、
生(生きる)とは、
映画館で映画を鑑賞していることに他ならないのです。
そして、
映画館で映画を鑑賞しているのは、自分独りなのです。
そして、
映画館で映画を鑑賞している自分独りが、自分の世界(鑑賞者の世界)と映画の世界(他者の世界)を同化させていなければ、自覚の人生を送ることができるのです。
一方、
映画館で映画を鑑賞している自分独りが、自分の世界(鑑賞者の世界)と映画の世界(他者の世界)を同化させていれば、錯覚の人生を送る羽目に陥るのです。
まさに、
夜の眠りの中で観ている夢は映画に他ならないのです。
そして、
夢に同化させていれば、夢を夢と自覚できず、夢を現実と錯覚してしまう眠りの人生になるわけです。
夢と同化させていなければ、夢を夢と自覚できる覚醒の人生になるわけです。