第三十二章 独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬ

私たち人間の大人社会、つまり、死を知った生きものの逆さま社会が、正さま社会に変貌するには、“如何に死ぬか”という問題と正対する人間で構成される社会にならなければならない。
そこで、
“如何に死ぬか”という問題に正対するには、先延ばししない生き方をすることだと前述しましたが、具体的にはどうしたらいいか?
逆に言えば、
先延ばしせず生きるためには、
“如何に死ぬか”という問題と正対するしかない。
まさに、
“如何に死ぬか”=先延ばしせず生きることに他ならない。
この真理は一体何を示唆しているか?
まさに、
待ったなしの状態でやって来るのが死である。
そして、
待ったなしの状態とは、自分独りしか存在しない『今、ここ』の状態に他ならない。
そこで、
独りで生まれてきて、独りで死んでゆく。
私たち人間の大人であれば、この事実は誰でも知っています。
ところが、
誕生と死の間に横たわる生、
すなわち、
誕生→生→死という円回帰運動の中で、生とは独りで生きてゆくものだと自覚していません。
なぜならば、
死を怖れている原因の一つに、死ねば、家族や友人と別れなければならない怖れがあるからで、まさに、愛別離苦、怨憎会苦というわけで、生(生きる)も独りだと自覚していないのです。
つまり、
独りで生まれてきて、独りで死んでゆくのだが、生きるのは独りではないと信じているのです。
では、
誕生(始点)→生(円周)→死(終点)という円回帰運動の中において、
誕生(始点)は独り。
死(終点)は独り。
だが、
生(円周)は独りではない。
と言うのでしょうか?
そこで、
誕生(始点)→生(円周)→死(終点)という円回帰運動の本質を思い出してください。
結局の処、
私たち人間の大人は、
誕生(始点=静止実在点)→生(円周=運動映像線)→死(終点=静止実在点)と捉えるから、
誕生(始点=静止実在点)は独り。
死(終点=静止実在点)は独り。
だが、
生(円周=運動映像線)は独りでない。
と捉えているのです。
ところが、
生(円周=運動映像線)とは、まさに、映像であり、その実体は、静止実在点の連続に他ならないのです。
つまり、
独りで生まれ、独りで死に、そして、誕生と死の間に横たわる生も、独りで生きる、
と言うのが真理なのです。
まさに、
この点においても、私たち人間の大人は逆さま生きものなのです。