第二十六章 人間社会は逆さま社会

“如何に生きるか”に汲々とした生き方は、明日に先延ばしする生き方の悪循環に陥る。
一方、
“如何に死ぬか”という問題に正対する生き方は、明日に先延ばししない生き方の善循環に入ることができる。
まさに、
“如何に生きるか”に汲々とした生き方をしてきた、私たち人間の大人は悪循環の人生を送っているわけです。
そして、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生とは、“如何に生きるか”に汲々とした生き方をしてきた結果の悪循環の所産に他ならないのです。
従って、
“如何に生きるか”という問題は、“如何に死ぬか”という問題と表裏一体の関係にある。
つまり、
“如何に死ぬか”を外して“如何に生きるか”は考えられないわけです。
ところが、
私たち人間の大人は、“如何に生きるか”に汲々とした生き方をしてきた。
従って、
私たち人間の大人は、逆さまの生き方をしているのです。
まさに、
私たち人間の大人が主張する常識は、すべて逆さまなのです。
まさに、
人間の大人が形成する人間社会は、逆さま社会に他ならないのです。
従って、
人間社会だけにあって、自然社会にはない常識は、すべて逆さまなのです。
たとえば、
世襲・相続の慣習は人間社会だけにあって、自然社会にはありません。
たとえば、
ボスライオンやボス猿が自分の子供をボスにする慣習などありません。
なぜならば、
自然社会は、自然淘汰、すなわち、弱肉強食の世界ですから、自己の種を保存するためには、後継者は絶対強者でなければならず、絶対強者とは限らない自分の子供を後継者にすることは、種の消滅を意味するからです。
つまり、
自然社会では、世襲・相続の慣習はない。
一方、
人間社会では、世襲・相続の慣習がある。
たとえば、
最近話題になっている歌舞伎役者の傷害事件ですが、
喧嘩相手に袋叩きにされた歌舞伎役者は世襲した男であり、世襲した歌舞伎役者を袋叩きにした相手はおよそ世襲など不可能な出自の男であったわけですが、いざとなれば世襲など糞の役にも立たないことを証明しています。
それが、弱肉強食の自然社会なのです。
まさに、
人間社会は、逆さま社会に他ならない証です。
その原因は、
私たち人間の大人は、“如何に生きるか”に汲々とした生き方をしてきたからです。
逆に言えば、
世襲した歌舞伎役者を袋叩きにした相手は、“如何に死ぬか”の世界を否応なしに生きてきたのでしょう。
ヤクザや暴力団がなぜ喧嘩に強いのか、それは、“如何に死ぬか”の世界を否応なしに生きてきたからです。