第二章 私たち人間も果たして死を知っているのか?

未だ来ぬ未来に想いを馳せても、ただの取り越し苦労に終わってしまうのに、私たち人間だけは、ついつい、未来に想いを馳せてしまうのは、一体なぜでしょうか?
他の動物は、未だ来ぬ未来に想いを馳せることが決してないことは、前章でお話した通りです。
地球(自然)の一部として生きている彼らにとって、未だ来ぬ未来に想いを馳せることが御法度の食物連鎖の法則という地球(自然)の掟が絶対であるからで、彼らは地球(自然)との全体感で生きているのです。
一方、
未だ来ぬ未来に想いを馳せて生きている私たち人間は、食物連鎖の法則という地球(自然)の掟を破っているわけです。
私たち人間だけが、地球の一部だという認識がまるでなく、地球上に住んでいるだけと思い込み、地球(自然)と隔絶した部分観で生きているのです。
だから、
宇宙開発などと云っては他の星を侵略するのであって、まさに、未だ来ぬ未来に想いを馳せる結果の蛮行なのです。
自動車でたとえれば、
自動車が地球(自然)であり、エンジンが人間であり、タイヤやドアや一本一本のボルトやナットが他の生きものであるわけで、どの部品がひとつ欠けても自動車(地球)はトラブルを起こすわけで、ましてや、エンジン(人間)が自動車本体(全体)の気持ちも考えないで、勝手なことをしたら、自動車(地球)の機能を果たせないのです。
その結果、
他の動物が死を知ることはあり得ないのに、私たち人間だけが死を知るに至ったのです。
私たち人間と他の動物との決定的な違いがここにあります。
従って、
私たち人間も、未だ来ぬ未来に想いを馳せることがなかったら、死を知るに至らなかったでしょう。
逆に言えば、
他の動物も、未だ来ぬ未来に想いを馳せたら、死を知るに至ったでしょう。
つまり、
未だ来ぬ未来に想いを馳せることと死を知るに至ることとは同じ意味だったのです。
ただ、
死を知るに至ることが必要十分条件であるのに、未だ来ぬ未来に想いを馳せることは必要条件であったわけです。
なぜなら、
死という出来事は、未だ来ぬ未来の最後の出来事であるからです。
つまり、
死という未だ来ぬ未来の最後の出来事を知るに至ったら、途中の未だ来ぬ未来の出来事はすべて既知になる筈です。
ところが、
私たち人間は、未だ来ぬ未来の最後の出来事である死を知っているのに、途中の未だ来ぬ未来の出来事は何ひとつ知らないのです。
これは道理に合いません。
実は、
私たち人間も、未だ来ぬ未来の最後の出来事である死について何ひとつ知らないからではないでしょうか。
それなら道理に合います。