第十七章 自覚症状のない音痴

私たち人間も、他の生きものと同じ生きものであることを理解しなければならない。
死の理解をする第一要件です。
他の生きものや人間の子供と、私たち人間の大人との決定的な違いは、
エデンの園、つまり、自然社会は一元論の世界であるのに対して、人間社会は二元論の世界であることを理解しなければならない。
死の理解をする第二要件です。
この二つの要件を理解できれば、
私たち人間は、死の理解が可能なのです。
では、
死の理解ができれば一体どうなるというのでしょうか?
死の理解などしなくても、他の生きものや、人間の子供のように、死を知らない一元論の世界で生きている方がいっそましである、と反論される方もおられるでしょう。
そこで、
理解するということと、知るということについて考えてみましょう。
そうすれば、
死を理解することと、死を知ることの違いがわかってくるはずです。
第十一章で述べましたように、
未だ来ぬ未来の最期にやって来る死は、知る死、つまり、実在しない幻想(映像)上の死に他ならない。
一方、
『今、ここ』にある本当の死は、随所にある死であって、随所にある死とは、経験する死に他ならない。
まさに、
死を理解するということは経験すること。
つまり、
『今、ここ』にある実体のある死を経験することです。
一方、
死を知るということは想像すること。
つまり、
未だ来ぬ未来に想いを馳せるだけの実体のない想像上の死です。
従って、
知るということは、
未だ来ぬ未来に想いを馳せるだけのもの。
一方、
理解するということは、
『今、ここ』を経験すること。
この違いを、まさに、理解できなかったから、私たち人間は、死の理解の二つの要件を体得できなかったわけです。
まさに、
好いとこ取りの相対一元論に陥った、私たち人間のことを、わたしは自覚症状のない音痴と呼んでいます。