第十一章 私たちも実は死を知らない

私たち人間が知っている“必ずいつか死ぬ”という中途半端な知り方は道理に合わない知り方であった。
一方、
何年何月何日何時何分何秒・・・に死ぬという死は、随所に在る死であって、突然襲ってくることは絶対ない。
なぜなら、
何年何月何日何時何分何秒・・・に死ぬという死とは、『今、ここ』の出来事だからです。
そうしますと、
知るということは、中途半端な知り方しかできないことが、わかってきました。
一方、
本当に知るということは『今、ここ』を経験することであって、『今、ここ』においては、知るということはあり得ないわけです。
なぜなら、
第七章でお話したことを思い出してください。
死を知るためには、
死を知るもの(knower)、
死を知られるもの(known)、
死を知るそのもの(knowing)、
という三つの状態が必要なのです。
そうしますと、
死を知らなかった子供が、死を知るに至るには、
死を知るもの(knower)、つまり、自分(self)、
死を知られるもの(known)、つまり、他者(others)、
死を知るそのもの(knowing)、つまり、他者の死(others' death)、
という三つの状態が要るわけです。
つまり、
自他の区別意識がなければ、死を知るということは起こらないわけです。
ところが、
『今、ここ』においては、自分(self)という『想い』がないのです。
他の生きものや、人間の子供が、『今、ここ』を生きているのは、彼らには自分(self)という『想い』がないからです。
言い換えれば、
地球(自然社会)との一体感(全体感)で生きているからです。
従って、
本当の死とは、知るものではなく、経験するしかないわけです。
しかも、
未だ来ぬ未来の最期にやって来る死は、知る死、つまり、実在しない幻想(映像)上の死に他ならないのです。
一方、
『今、ここ』にある本当の死は、随所にある死であって、随所にある死とは、死そのものがないことに他ならないわけです。
ここの点は哲学的表現で理解に苦しむ方もおられるかもしれませんが、申し訳ありませんが、脳みそに汗をかいていただくしかありません。
遍在するものはないのと同じで、偏在するからあると思うのです。
老子の言葉と記憶しますが、
“あるものはない、ないものがある”
新田哲学の言葉で恐縮ですが、
“見えるものはない、見えないものがある”
つまり、
『今、ここ』では、死を知るもの(knower)である自分も、死を知られるもの(known)である他者も、死を知るそのもの(knowing)もない、つまり、自他の区別のない『想い』、つまり、全体意識しかないからです。
従って、
私たち人間が知っている“必ずいつか死ぬ”という死は、本当の死ではなかったのです。
従って、
私たち人間も実は死を知らないことになります。